琉球王国の文化について

琉球王国はかつての沖縄県の呼び名で、1429年から1879年まで存在した独立国です。

建物や服装は一見すると、中華王朝の影響がとても濃いように思えます。

しかし、琉球王国の人々の先祖は日本の本土から現在の沖縄県に移住した人々だったりもします。

その後、本土と数百年ほど交流がなくなってしまいますが、平安時代の日本語が元となった言葉が琉球語の元になりました。

そんな独自の歴史を持つ王国の文化とはどのようなものだったのかを美術と芸能の方面から解説します。

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琉球王国の美術とは?

琉球王国には貝摺奉行という美術と工芸を制作する部署がありました。

これは主に琉球王府内で使われたり、明(清)や日本への進上物に使われた漆器やその他工芸品を製作していました。

王国で漆器が作り始められたのは1400年代のことで、明から伝えられました。

貝摺奉行という存在からも分かる通り、朝貢の時に必要な進上物を作ることが、いかに王国にとって重要だったのかが分かります。

漆器以外にも陶器も製作していました。

中国から製法が伝えられたとされますが、陶器にはシャムの特徴があります。

シャムとはタイ王国の旧国名です。

1460年代頃にタイのスンコロクという地の陶工たちが戦争により、陶芸が続けられなくなったので、一部は琉球に招聘されたのではないかという推測があります。

1609年には薩摩藩による琉球侵攻があり、琉球王国は薩摩藩の属国になります。

これにより、日本文化が流入することになります。

秀吉の存命時代に行われた文禄慶長の役で、日本に連れてこられた朝鮮人陶工を琉球に呼び、「上焼物」と呼ばれる釉薬を使って焼く技法を学びました。

琉球王国の芸能とは?

琉球王国の舞踏は祭祀での舞踏が元となったとされ、王や明や清からの冊封使の面前で披露されました。

この時の踊り手は男性と決められていました。

1609年の薩摩藩による琉球侵入により、王国は日本文化と直接的にも間接的にも触れる機会が大幅に増えました。

これが王国の芸能にも大きな影響を与えました。

王国は王が代替わりする時、将軍が代替わりする時、使節団を派遣するという江戸上りを命じられます。

琉球王国の使節団はこの江戸上りの途中、能や歌舞伎、狂言を鑑賞したといいます。

その後、王国内で諸芸の奨励が行われたことにより、士族たちにも積極的に取り入れられることとなりました。

中国の戯曲や日本の芸能を元に生まれたのが琉球組踊です。

まとめ

琉球王国は明や日本から影響を受けた独自の宮廷文化が花開きました。

王国の文化の歴史は大まかには、3つの時期に分けられます。

前期・東南アジアや明から影響を受けた初期

中期・日本文化の影響を受けた時期。

後期・明や日本文化をベースに独自の芸能が生まれた時期。

琉球王国はなくなりましたが、現在の沖縄にも琉球王国からの芸術と芸能の文化が引き継がれています。

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