琉球王国の伝説になぜ源為朝が出てくるのか?

かつて沖縄県は琉球王国という1429年から1879年まで存在した独立国です。

1429年に沖縄本島が統一され、明からの冊封により琉球という国号を得ました。

そのため、1429年建国としていますが、それ以前にも琉球王国には天孫、瞬天、英祖、察度と呼ばれる王統がありました。

王統となっていますが、実際は当時、一番大きな勢力だった豪族ではないかとされています。

なお、天孫は神話上のもので実在していません。

瞬天も実在していなかったのではないかとされていますが、彼の父親が何故か源為朝という源氏の人間なのです。

何故、源為朝が父親という伝説が生まれたのかをご紹介します。

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源為朝って誰?

源為朝は河内源氏の父の8男として1139年に生まれました。

源頼朝と義経の伯父に当たる人物です。

幼少期から乱暴者だったため、九州に送られます。

13歳で九州を手中にしたいと戦争を始め、周囲の名主たちを攻め始めます。

身長は2m10cmで肉体に恵まれていた以外にも軍略といった才能も豊かだったこともあり、3年で九州を従えました。

1156年に鳥羽法皇の崩御がキッカケとなり、天皇と上皇が争っていた京都に呼ばれ、上皇方として天皇側の平清盛と戦うこととなります。

この時の戦いを保元の乱といいます。

しかし、奮戦空しく敗北し、逃げ回った末に密告により捕まり、伊豆諸島へ島流しされます。

その後、伊豆諸島を従わせようと、伊豆諸島の制圧を開始します。

1170年には朝廷は大軍を送り、追い詰められた為朝は切腹をして果てました。

享年は32歳。

伝説が多い人物で、佐賀県の黒髪山で角が7本ある大蛇を仕留めたや伊豆に島流しにされた時には鬼が島に行き、鬼を討伐したという伝説が残っています。

江戸時代の頃にとても人気があったらしく、この頃に為朝が琉球王国に行ったという伝説が生まれたようです。

源為朝の子とされる瞬天とは?

保元の乱で敗れた源為朝は沖縄の今帰仁に上陸し、現地の按司(あじ)と呼ばれる権力者の妹と結ばれ、一子をもうけた。

その子どもが後の瞬天であり、父親である源為朝は伊豆へと戻っていったと伝説が残っています。

江戸時代に作られた中山世艦という琉球王国の歴史書に掲載され、一応、正史扱いとなっています。

元々、瞬天は尊敦という名前で成長して15歳で浦添の按司となります。

その後、21歳の時に天孫氏25世を謀殺した逆臣を討ったことから、浦添で王になったとされます。

1187年に名前を瞬天とし、善政を敷き、72歳で亡くなりました。

この頃、王になったとされますが、瞬天が実在したという遺跡の痕跡は見つかっていません。

そのため、この頃は様々な按司と呼ばれる豪族たちが沖縄本島にいたことから、浦添の豪族だったのだろうと推察されています。

まとめ

何故、源為朝と琉球王国の瞬天が結び付けられたのでしょうか。

それは1609年の薩摩藩による琉球王国の支配の影響や圧力を如実に受けたからでしょう。

この瞬天伝説が登場する書物『中山世鑑』は薩摩藩の支配下で1650年頃に始めて書かれた琉球王国の正史ですが、日本書紀や古事記のような物語的側面を持っています。

源為朝を引き合いに出し、日本と琉球は共通の先祖を持っているとすることで、薩摩藩の支配を正当化し、琉球王国側としても、「我々は日本と平等なのだ」と主張することで、日本との外交を少しでも有利にしようとしたのでしょう。

この中山世鑑などが元となって生まれたのが、曲亭馬琴の珍説弓張月と呼ばれる読み物で、江戸時代の頃には源為朝はとても人気があったといわれています。

瞬天と源為朝は無関係だと思われますが、今の所、関係がなかったという証拠も見つかってはいないようなので、歴史のロマンの1つと言えそうです。

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