かつて沖縄県は琉球王国と呼ばれ、1429年から1879年まで存在した独立国でした。
明(清)の冊封国であり、1609年からは日本の属国となります。
そのため、明(清)と日本の影響を受けた独自の文化が特徴です。
幕末には西欧列強の船が琉球王国も訪れ、条約を結びます。
どのような条約だったのかを解説します。
何故、西欧列強は琉球王国に訪れたの?
西欧列強はこの頃、様々な思惑で日本や琉球王国にやって来ました。
米国は捕鯨漁における物資補給の基地として、日本に薪や食料の供給を求めています。
何故、琉球王国を物資補給の基地にしたかったのかという事情については当時の西欧列強の覇権など国ごとの様々な事情があったようです。
そのため、日本や琉球王国が外国の植民地にならなかったのは、西欧列強側にメリットがなかった半面、運が良かったともいえます。
琉球王国が外国と結んだ条約
琉球王国が外国と実際に結んだ条約は3つです。
「琉米修好条約」アメリカとの間の条約です。
正式名称は「亜米利加合衆国琉球王国政府トノ定約」といい、1854年7月11日に結びました。
「琉仏修好条約」フランスとの間の条約で、1855年11月24日に結ばれました。
「琉蘭修好条約」オランダとの間の条約で、1859年7月6日に結ばれました。
どれも通商と物資補給と領事裁判権に関する内容となっています。
領事裁判権とは琉球王国にいるアメリカ人でもフランス人でもいいですが、犯罪を犯した場合、それを琉球王国側は裁くことが出来ないというものです。
領事裁判権はこの頃の日本が外国との間で結んだ不平等条約の中にも盛り込まれています。
琉球王国を支配していた薩摩藩は、琉球王国のこの条約を事後承諾したり、修正を指示しました。
しかし、実際に修正されることはありませんでした。
まとめ
日本が幕末を迎えていた頃、琉球王国にも西欧列強の船が訪れていました。
航路の関係から、アメリカは日本よりも先に琉球王国を訪れています。
琉球王国が結んだ条約は3つです。
「琉米修好条約」「琉仏修好条約」「琉蘭修好条約」です。
それぞれ、アメリカ、フランス、オランダとの条約です。
通商と物資補給、領事裁判権に関する内容となっています。
領事裁判権とは琉球王国に滞在している条約を結んだ国の国民が犯罪を犯しても、琉球王国側は裁くことが出来ないというものです。
そのため、不平等条約ともいわれています。
この頃の日本が外国と結んだ条約も同じく、不平等な内容でした。
しかし、国力が違うのですから、仕方がないことでもありました。