琉球王国と中国との関係

琉球王国はかつての沖縄県の呼び名で、1429年から1879年まで存在していました。

当時の中国である明や清との関係が深く、冊封を結び、朝貢をしていました。

1609年には薩摩藩の侵攻により、日本の属国にもなりました。

そのため、当時の中国である明や清、日本の影響を受けた文化が特徴です。

琉球王国と当時の中国である明や清とどのような関係を築いていたのかをお知らせします。

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琉球王国と明との関係

琉球王国が建国される1429年以前中山という勢力だった時代から明との関係が始まります。

明から朝貢を促され、冊封したのが始まりです。

冊封とは中華王朝の臣下になる契約のようなことを言い、属国になることを示します。

皇帝は臣下国に王の称号と国号と朝貢の許可を与えます。

朝貢とは中華王朝の皇帝が課す税のような義務で、貢物を持っていくことになります。

皇帝は返礼として、朝貢以上の品を朝貢国に下賜するというものです。

朝貢を持っていった時に行われる貿易が朝貢貿易と呼ばれるものです。

琉球王国は朝貢品を外国から買っていたため、赤字だったようで、明に朝貢品を買うお金がないと支援を求めたこともあります。

多くの明人が琉球王国に渡来し、官僚となりました。

琉球王国の初代国相は明人であることから、国造りに多くの影響を受けました。

その後、久米村に明人が入植し、久米36姓と呼ばれています。

彼らは職能集団であり、多くの先進的な技術を持った人々で、士族といった高い位に取り立てられたようです。

1609年には琉球王国が薩摩藩島津氏の属国になると、明は朝貢の回数を10年に1回に制限します。

琉球王国側は使者を派遣し、経緯を説明しましたが、明本国に危険がないことなどから、軍を派遣し、薩摩藩を追い出すようなことはしませんでした。

琉球王国と清との関係

1644年に明は滅び、王朝は清へと変わります。

基本的に明時代と同様の関係が、琉球王国と清の間に結ばれました。

清は琉球王国との朝貢貿易の規模を縮小しようとしましたが、琉球王国が反対。

琉球王国側は清の文化を積極的に取り入れることで、朝貢貿易の規模縮小を免れます。

朝貢貿易は赤字ではありましたが、大国と友好な関係を結んでおけば、攻められることはありませんし、清の威光をもって政治を行っていたところもあるでしょう。

1879年に琉球王国が滅ぶと、清が抗議。

清は琉球王国は長年、朝貢をしていたから、自領だと主張し、先島諸島に派兵を検討。

アメリカ大統領の仲裁による交渉も決裂しました。

なお、室町時代以前の日本も朝貢をしていましたので、清の主張を認めると、日本を始め、多くの国が中国領となってしまいます。

まとめ

中国が建国される以前、明や清だった時代から琉球王国との関係は始まります。

琉球王国が日本に併合される形で消滅すると、琉球王国と当時の中国である清との外交関係も終わりを迎えます。

現在の中国は沖縄県の独立を支持する立場にありますが、沖縄県で独立を支持する政党が当選したことはありません。

あくまで、沖縄県内の少数運動なのですが、安倍総理が沖縄県に対して強硬姿勢なこともあり、議論は高まりそうです。

中国が沖縄県の独立を支持するのは、最終的にはハワイやグアム近海にまで勢力を伸ばし、アメリカと太平洋を二分割するという政略によるためです。

そのために、沖縄県に駐留する自衛隊と米軍が邪魔なのです。

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