皇太子(のちの昭和天皇)が訪欧の途中に首里、那覇に立ち寄る

皇太子が訪欧途中に沖縄の首里と那覇に立ち寄ったようです。

なぜなのかを少しご紹介していきたいと思います。

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皇太子の訪欧目的

明治時代には皇族の海外留学や外遊が行われるようになり皇族の見分を広めるため、皇族の皇太子も海外へ行くことが多くなります。

1907年には後の大正天皇になる嘉仁親皇太子も韓国へ外遊に行っています。

嘉仁親皇太子は元々欧州に外遊に行きたかったらしいのですが、当時の明治天皇が反対したため実現しなかったようです。

その後1919年には裕仁親王(後の昭和天皇)がヨーロッパに外遊する計画がなされました。

その理由として、裕仁親王は後の天皇に近い存在でもあり、あった大正天皇の摂政となる可能性もあったため各国の王室と交友を深めてもらいたいという希望があったようです。

しかしこの外遊計画もすぐに実現とはいかず、いくらかの反対もありました。

ヨーロッパの旅は長く体に負担がかかることや、反日朝鮮人の襲撃なども懸念されていたようです。

いろんな反対もありましたが1921年には欧州へ行くことへの許可が下りました。

裕仁親王は喜んだようですが、回りは避難や反対が相次いでいた。

このころから裕仁親王は国民や官僚からいろんな期待を受けていたと思われます。

しかし旅程も組まれていくなど外遊作業は進み、ベルギー、オランダ、イタリアに訪問することになりました。

その欧州の外遊に行く際旅程には沖縄県の港に寄ることも含まれていました。

皇太子が沖縄訪問

裕仁親王は沖縄県の中条湾に到着した後、与那原から那覇、首里へと移動していきました。

1921年に施政を施行して那覇と首里は市という立場になったばかりだったので、裕仁親王も沖縄県の変化を見ることができたと思います。

またこの沖縄での訪問中に中学校生徒の唐手の演舞を見学したり、沖縄県特産のエブラウナギを食べたりするなど沖縄を満喫していたようです。

裕仁親王が沖縄にいたのは半日ほどだけでしたが、那覇と首里により沖縄の文化と食べ物に接することができたのは、いい経験になったと思います。

その後、裕仁親王はヨーロッパの外遊に向かっていきました。

そして沖縄の訪問もこれが最初で最後の訪問となります。

まとめ

皇族の外遊は明治以降盛んになりますが、ヨーロッパの外遊は反対が多くおこります。

裕仁親王は外遊の際に、沖縄の那覇、首里に寄り、沖縄を満喫されました。

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