琉球王国が繁栄した理由

かつて沖縄県は琉球王国と呼ばれていました。

当初は沖縄本島周辺のみが領土でしたが、のちに八重山や宮古島といった先島諸島や奄美大島に侵略し、領土を広げました。

人口は17万人ほどの小国ではありますが、繁栄していたといいます。

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琉球王国繁栄の理由とは?

琉球王国が繁栄をしたのは貿易が理由だとされています。

明と冊封関係を結んでおり、これは琉球が明の従属国となることをいいます。

琉球は明に朝貢を開始します。

朝貢とは明に貢物を持っていくことですが、明の皇帝から返礼をもらえた上に、明の商人との貿易も行うことが出来ました。

通常は2年に1度、10年に1度と期限が決められていました。

朝貢は貿易とセットになっていたため、朝貢貿易と呼ばれています。

明は倭寇と呼ばれる海賊と密貿易対策を兼ねて、海上利用を規制する海禁政策を行いました。

貿易を制限する法律でもあったので、国内の商人は反発し、それを抑えるために琉球に無償で大型船を提供し、貿易国に成長させ、朝貢を行わせることにしました。

明が北のモンゴルとの戦いにより馬と硫黄が必要だったという事情もあり、琉球王国の馬と硫黄を入手するために、最盛期には無制限に朝貢を受け入れています。

琉球は明からの品物を他国に売却していたようで、このように他国の品を別の国に転売することを中継貿易といいました。

中継貿易で繁栄したといわれていますが、琉球王国は国内の産業などが乏しく目ぼしい朝貢品がなかったため、明から得た利益で朝貢品を日本やシャムといった国から購入するので精一杯だったらしく、一部の購入品を日本からの借金で賄っていました。

国としての貿易は赤字でしたが、有力士族などは明との貿易の恩恵に預かり、栄えたようです。

琉球王国の貿易が衰退した理由

琉球王国の中継貿易が繁栄したといわれるのは15世紀から16世紀前半の期間です。

当初は明から優遇されていた琉球王国でしたが、明の国力が徐々に低下していき、朝貢貿易も縮小せざるを得なくなっていきます。

更に、明は広州の港を開放し、外国商船を受け入れ始め、東南アジアにはポルトガルなどの西欧列強が進出するようになり、琉球王国は1570年には東南アジアから完全に撤退することになりました。

17世紀となった1609年には琉球王国は薩摩藩の島津氏に従属させられます。

薩摩藩の目的は戦国時代で疲弊した財政の回復を図るためです。

当時、日本は明が要求した朝貢を拒否したため、2つの国には国境がなく、貿易も長崎の出島などで行うといった限られたものでした。

そこで、薩摩藩は琉球王国を表向きは独立させ、明の従属国にしておき、裏から支配することで、明と琉球の貿易の上前をハネた上に、年貢も取り立てました。

薩摩藩は琉球王国を介してはいましたが、これにより日本と明との貿易を独占するに至りました。

琉球王国は中国と冊封関係を結びながら、日本にも支配されるという2重支配の状態となり、財政は更に逼迫され、薩摩藩や幕府に借金を重ねることになります。

まとめ

琉球王国は貿易で繁栄をしたと言われますが、実態は明への朝貢品を外国から購入する必要があり、財政は厳しいものでした。

これは明が清になっても基本的には変わらず、薩摩藩や幕府からの借金で朝貢を続けました。

財政が厳しい琉球王国では国民に重税を課すしかなく、植民地の先島諸島では更に厳しく徴収されました。

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