琉球王国と諸外国との関係とは?

琉球王国は貿易で栄えました。

琉球王国が貿易の最盛期を迎えていたのは15世紀から16世紀の頃で、当時は明(のちに清)、日本、朝鮮、東南アジア諸国といった諸外国と交流がありました。

幕末にはアメリカなどの黒船も来航することになります。

琉球王国ではこのような諸外国とどのような関係を結んでいたのでしょうか?

諸外国との関係について解説します。

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琉球王国と明、日本との関係

琉球王国は名目は独立国ですが、明と日本の属国でもありました。

明とは冊封関係と呼ばれる関係を結び、朝貢貿易を行っていました。

冊封とは明に対して、臣下の礼を取ることです。

つまり、琉球王国は簡単に言うと、明の家来ということになります。

朝貢とは、臣下国が明に貢物を持っていき、明からは見返りに恩賜という名目で様々な物品を与えられることを言います。

明との貿易をするためには朝貢が必要であり、朝貢は貿易とセットになっていました。

琉球王国は他の朝貢国に比べて、優遇されており、他の国よりも多く朝貢を行っていました。

1609年には琉球王国は薩摩藩に屈服することになりますが、完全に征服されたわけではありません。

これは薩摩藩が琉球を利用して、明との貿易の利益を得たいという思惑があったためで、琉球を完全に植民地化してしまうと、琉球と明との冊封印関係はなくなり、目的を達成することが出来なくなるため、表向きは独立を維持させる必要がありました。

明も薩摩藩の琉球侵攻は知っていましたが、明本国に危機が及ぶものではないことと明の衰退期ということもあり、朝貢を制限するくらいで、のちに琉球王国との朝貢は通常の回数に戻りました。

薩摩藩は明と琉球王国との貿易の上前をハネ、年貢を納めさせる一方で、琉球王国にお金を貸し付けていました。

そのため、この頃の琉球王国は経済的に薩摩への依存を深めていくことになります。

琉球王国の内政については明も薩摩藩も深く介入することはありませんでした。

幕末の琉球王国と西欧列強との関係

1844年にはフランスとイギリスが通称を求めて、琉球にやってきました。

その後、アメリカのペリーも同様に琉球を訪れます。

ペリーは日本よりも先に琉球王国へ上陸しており、国王に親書を渡しました。

この頃、西欧列強は琉球や日本を航海の中継地として利用したいという思惑があり、必要とあらば、武力による占有も仕方ないという気持ちで来ています。

琉球王国はアメリカ、フランス、オランダと修好条約を結びましたが、日本と同様に不平等な条約でした。

日本も琉球も訪れた西欧列強と国力の差が歴然とあるので、この時点の条約が不平等なのは仕方がないことでもあります。

まとめ

琉球王国は明と薩摩藩に従属させられたことを除けば、諸外国との関係は決して悪いものではなく、小国の琉球王国にとって、他国との対立は出来るだけ避けたい事態だったでしょう。

明とは冊封関係にあり、他の諸外国と比べて、貿易で優遇されていました。

しかし、戦国時代が終わった薩摩藩の島津氏は領土が少なくなり、経済的に窮地に陥り、琉球王国を利用することで、経済的危機を脱しようとしました。

幕末には日本が琉球王国を併合すると、清が反発し、琉球の領有を主張し、日本と清は対立することになります。

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