琉球王国と中国との関係とは?

沖縄県が琉球王国だった1429年から1879年の間、まだ中国という国名はありませんでした。

その当時の中国は明と呼ばれ、明が滅んだ1644年には清になりますが、どちらの国とも琉球王国は関係を築いていました。

その当時の中国と琉球王国はどのような関係を築いていたのかをご紹介します。

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琉球王国と明時代の中国との関係

琉球王国と呼ばれる前、沖縄本島は北山、中山、南山と呼ばれる3つの勢力が争う三山時代を迎えていました。

1372年に中山の察度王が明へ朝貢を始めます。

これは明へ貢物を持っていくと、そのオマケで貿易が出来るというもので、朝貢貿易といいます。

他の勢力もほどなくして、明へ朝貢を始めました。

朝貢により、3つの勢力はそれぞれ王であると明の皇帝に認められると同時に、3つの勢力の王は明の皇帝の臣下となりました。

このように、国同士で主従を取り決めすることを冊封といい、朝貢をするためには必要なものでした。

尚巴志が北山と南山を征服し、琉球の統一王朝を築いた1429年にも冊封関係を引き続き結び、明より琉球という国号と琉球王という爵位と尚という姓を賜りました。

明は倭寇といった海賊に手を焼くなどして、海上利用を制限する海禁政策を行っていましたが、海上貿易の禁止も海禁の1つだったため、国内の商人たちは不満が高まることになりました。

そのため、明は琉球王国に船を無償で供与し、朝貢を頻繁に行わせることにしました。

国内の商人たちに琉球が朝貢をしてきた時に、琉球との貿易の許可を与えることにより、不満を抑えることにしたのでした。

他にも明は琉球の馬と硫黄を必要としたという事情もありました。

琉球王国は明に頻繁に朝貢関係を行っていましたが、明の国力低下により朝貢貿易の縮小や広州が開港したことにより琉球王国の朝貢貿易による明国内での価値は低下することになります。

当初から主要な産物がなかった琉球王国は、明との貿易で得た利益で朝貢品を購入し、それでも足りない場合は薩摩藩からの借金に依存していたのが実態のようです。

1609年には琉球王国は薩摩藩に侵入され、従属することになります。

明はこのことを承知していましたが、国内の戦争や明本国に危機が及ばないことを理由に、朝貢を10年に1度にする程度でした。

琉球王国と清時代の中国との関係

清の時代になっても多少の混乱はあっても、冊封関係は続いていました。

琉球王国と清との朝貢貿易も貢物を輸入に頼らざるを得なかったために赤字となっていて、明時代から引き続き薩摩藩から借金をしていました。

清も朝貢に対しては、朝貢国が持ってきた何倍もの返礼を行う必要があるため、負担が重く、規模を縮小しようとしましたが、琉球王国はそれでは困ると中国文化を積極的に取り入れることで阻止しようとしました。

国の財政的には赤字でも有力士族は清との貿易で潤っていたという事情もあり、やめるわけにはいきませんでした。

明治維新後、日本は琉球王国の借金を肩代わりした上で、琉球王国を廃止し、琉球藩を設置し、日本に完全に編入しました。

この動きに清は反発し、琉球の領有を主張します。

清の認識としては、冊封をした琉球王国は清の一部というものなので、交渉は難航します。

現在の沖縄県は日本の一部となっていますが、現代の中国も沖縄県は中国の一部であると主張をしていますが、これは、現代の沖縄県が海上の要衝ともいえる土地に立地していることも拍車を掛けていると思われます。

まとめ

琉球王国と中国の関係はまだ琉球王国が中山と呼ばれた頃から始まり、中国では明と呼ばれた時代でした。

当初から琉球王国が貢物を持っていき、冊封を受け、中国に従属するという形でしたが、中国側からすれば、これにより琉球は中国の一部になったという解釈が成り立ちました。

この朝貢貿易は琉球王国が日本に完全に併合され、なくなるまで行われました。

琉球人の一部は王国復活を目指し、清へ救援を求め、脱清人と呼ばれました。

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