17世紀の琉球王国の様子とは?

かつて沖縄県は琉球王国と呼ばれ、1429年から1879年まで存在した独立国でした。

明と日本から文化的に大きな影響を受けましたが、東南アジアからの影響も認められるのが特徴です。

これらの国々からの影響を元に、独自の文化を作りました。

17世紀の王国の様子とはどのようなものだったのかをお伝えします。

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17世紀初頭1609年薩摩藩島津氏の琉球出兵

薩摩藩は戦国時代という荒波は耐えましたが、かつて九州全域を支配していた領地も現在の鹿児島県と宮崎県の一部のみとなり、財政的に疲弊をしていました。

そこで、琉球王国が行っていた明との朝貢貿易に目をつけます。

薩摩藩は琉球王国を影から支配することで、明と琉球王国の冊封という外交関係を維持させつつ、朝貢貿易の利益を独占しようとしました。

この当時の日本は明と国交がなく、長崎の出島に明の商人がやって来たり、日本の商人が明に行くという程度のものだったので、薩摩藩は琉球王国を利用することで、儲けることも可能だったのです。

主な理由としては上記ですが、他にも、「室町幕府だった時代に、薩摩藩に琉球を与えると当時の幕府が言ったから」「琉球王国が徳川幕府に対して非礼だったから」「琉球王国が薩摩藩に対して非礼だったから」「琉球王国が薩摩藩と険悪だった」「薩摩藩が琉球王国に貸していた金を返さなかったから」といったものが遠因として挙げられています。

島津氏の琉球への出兵から12日後に琉球王国は和睦という形で降伏します。

これは当時の琉球王国が武器を持っていなかったからだという意見もありますが、この時代は海賊が大量にいた時代ですから、武装は当然していました。

薩摩藩に降伏後、琉球王国は奄美諸島を薩摩藩に明け渡します。

この奄美諸島は1400年代に琉球王国が薩摩藩の領有だったものを侵攻し、領有していたものです。

琉球王国は薩摩藩に年貢を納めたり、貿易の利益も薩摩に納めることになります。

薩摩藩は琉球王国と明の貿易の利益を手に入れ、年貢を徴収したりする形で儲けたのですが、貿易を維持するためなど様々な理由で琉球にお金を貸し付けてもいました。

そのため、琉球王国は経済的に薩摩藩に依存を深めていくことになります。

17世紀の琉球王国内の出来事

17世紀は琉球王国にとっても様々なことがありましたが、さつまいもを王国に持ち帰ったのもこの時代です。

1612年には明への朝貢が10年1貢制となります。

明が薩摩の琉球侵攻に反発したからですが、その後、5年1貢から2年1貢制と徐々に緩められていきます。

1622年には南蛮船がやって来て、キリスト教を布教し、1628年には先島諸島の住人がキリシタン罪で処刑されています。

日本ではキリスト教の布教は西欧列強へ支配されてしまう第一歩と考えていたので、キリスト教に対しては過敏で厳しく対応していました。

1612年には琉球人が日本化するのを薩摩が禁止しましたが、1624年にも薩摩が名字衣服の日本風を禁止しています。

薩摩藩としては琉球王国を独立した国に見せるために日本化されては困るのですが、江戸上りなどによって琉球と日本の交流も増えていたので、ある程度影響を受けるのは仕方ないことと言えそうです。

1646年には砂糖やウコンが初めて薩摩に送られました。

砂糖は琉球王国の交易品でもあり、薩摩への年貢でもありました。

1660年には首里城の正殿が燃え、薩摩藩に正殿復興の支援を要請しています。

まとめ

17世紀は琉球王国が薩摩藩に支配されることとなった時代です。

薩摩藩へ明(清)との朝貢貿易の利益と年貢も納めていた他に、年始の挨拶を行い、将軍か琉球王が変わる度に使節団を送る江戸上りというものも行っていました。

薩摩藩への年貢を納めるために人頭税が始まったとされますが、琉球に薩摩が侵攻する以前にも人頭税はあったという説もあります。

薩摩藩のせいで財政が圧迫された一方で、役人の生活が豊かになっていたとも言われています。

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