令和元年の10月末に起きた火災で消失した沖縄の首里城は現在、古都首里の正殿をはじめ、地形や水質、植生などを配慮しながら再建中です。
首里城は、沖縄県となる以前の琉球王国の歴史や文化を象徴する城として存在しながらも、これまでに5回の火災による被害を受け再建されています。
そんな首里城の最初の火災被害は、王位争いで起きた「志魯・布里の乱」によるものです。
ここでは、尚巴志によって誕生した琉球王国の王位継承の過程で起きた「志魯・布里の乱」について、ご紹介します。
琉球王国に起きた「志魯・布里の乱」とは?
琉球王国は、沖縄本島で覇権を争っていた「北山」「中山」「南山」の三つの勢力が尚巴志によって統括され誕生しますが、地方の按司と呼ばれる有力豪族の勢力は強く、中央集権政策の構築は困難な時代でした。
それに加え、尚巴志の死後、わずか15年ほどの間に、尚忠、尚思達、尚金福と国王が頻繁に交代し、琉球王府の内部の不和や不協和音は、対外的にも好ましくない状態を生んでいます。
そんな中、第一尚氏王統の6代目となる国王の王位を、王世子の志魯と王弟の布里が争い、1453年に「志魯・布里の乱(しろ・ふりのらん)」と呼ばれる戦いを勃発させています。
三山時代と呼ばれる戦国時代を変え、安定した王制国家を構築するどころか、内部崩壊の危機に瀕する状況を生み出した「志魯・布里の乱」によって、首里城は全焼し、志魯と布里の両方が命を落とす結果となります。
琉球王国に起きた「志魯・布里の乱」の後はどうなった?
琉球王国の第6代目国王の座をめぐって起きた「志魯・布里の乱」の後、王位は布里の弟にあたる尚泰久が継ぐことになります。
この争いは凄まじく、首里城は全焼し、志魯と布里の両方が死んだといわれ、意外なかたちで尚巴志の七男の泰久に王位が巡っています。
そんな王位争いの痕跡は、首里城正殿の一階、下庫理の前にある遺構跡に、石積みが焼け爛れ融合した状態に垣間見えます。
首里城は「志魯・布里の乱」によって全焼しながらも、その後再建復興され、火災や戦禍の影響を受けながらも再建され、現在も再建が待たれています。
琉球王国の王位継承争いで生じた「志魯・布里の乱」
有力豪族が覇権を争いしのぎを削っていた沖縄の戦国時代から、中央集権の王制国家を目指した琉球王国でしたが、地方の有力豪族の按司らの勢力や王位継承問題が存続の危機に見舞われます。
そんな王位継承争いは、尚金福の死後、「志魯・布里の乱(しろ・ふりのらん)」という激しい戦いが繰り広げられ、首里城も全焼しています。
首里城正殿の下庫里の前に積まれた石積みには、その当時の戦闘によって焼けて融合した痕跡がみられます。
