かつて沖縄県は琉球王国と呼ばれ1429年から1879年まで存在した独立国でした。
明(清)や日本の影響を受けながらも独自の文化を築いたのが特徴です。
琉球王国は王族である尚氏と有力士族たちが権力者として、統治を行いました。
尚氏の歴史は第一尚氏王統と第二尚氏王統に分かれます。
この第一尚氏王統から第二尚氏王統に変わる時に、運命に翻弄されたのが百度踏揚(ももどふみあがり)と呼ばれる姫です。
どのような姫で、どのような運命を辿ったのかをご紹介します。
百度踏揚(ももどふみあがり)とは?
詳しい生没年は不明ですが、15世紀に第一尚氏王統第六代王尚泰久の娘として生まれました。
美しい姫といわれています。
なお、百度踏揚は本名ではなく、祭祀者である神女としての名で、永遠に気高いという意味があるそうです。
この頃の琉球王国では初代王尚巴志が亡くなってからの王は誰もが在位が短く、そのため、政権も不安定化していました。
地方では琉球王府に対抗出来るくらいの力を持った按司(あじ)と呼ばれる権力者が台頭していました。
特に台頭が目覚ましかったのが、中城城(なかぐすくじょう)の護佐丸(ごさまる)と勝連城(かつれんぐすく)の阿麻和利(あまわり)でした。
百度踏揚にとって護佐丸は母方の祖父に当たります。
琉球王府にとって脅威だった按司の脅威を取り除くためにも百度踏揚は阿麻和利と政略結婚をしました。
付き人として、大城賢雄(うふぐすくけんゆう)が同行をしました。
その後、夫の阿麻和利は琉球王府と結託して、祖父の護佐丸を打倒します。
しかし、阿麻和利が次に琉球王府を狙っていることを知った百度踏揚は大城賢雄と共に、父の元へ逃げ、このことを知らせます。
これがキッカケとなり、阿麻和利は倒され、夫を失った百度踏揚は再び政略結婚を行い、大城賢雄の妻になります。
この戦いから2年後に父は病で倒れ、百度踏揚の兄弟である尚徳が王となりました。
しかし、新たな王は若くして亡くなったため、クーデターが勃発し、夫は亡くなりました。
新たな王となったのは金丸という者で、尚円王と名乗りました。
これが、第二尚氏王統の始まりです。
尚巴志が開いた第一尚氏王統は完全に崩壊し、血縁者への粛清が始まりました。
第一尚王統崩壊後の百度踏揚のその後
弟の三津葉多武喜(みつばたぶき)と共に玉城(たまぐすく)にある大川城(おおかわぐすく)に落ちのびた百度踏揚はそこで静かに余生を過ごしたといわれます。
現在は弟とともに葬られており、墓が沖縄県南城市役所の国民運動場近くにあります。
没落後も玉城にて祭祀に参加していたと伝えられ、墓からは高級神女の証である金のかんざしが発掘されたといいます。
まとめ
琉球王国の姫として生まれた百度踏揚は絶世の美姫といわれています。
琉球王国の政権交代という時代の激流に飲み込まれ、二人の夫と祖父を失います。
クーデターにより第一尚氏が没落したことにより、最後は玉城にある大川城へと落ち伸びることになります。
なお、最初の夫に嫁いだのは夫である阿麻和利へのスパイとしての役割も持っていたといわれていますが、詳細は分かりません。
オモロという神事の際に、神舞を踊りながら歌う古い歌には百度踏揚を讃えるものがあります。