琉球王国が戦ったオヤケアカハチの乱とは?

沖縄本島に首里の王府を中心とした中央集権国家を構築した琉球王国は、沖縄の宮古や八重山といった地方統治をどうしていたのでしょうか?

尚巴志から7代受け継がれた「第一尚氏の王統」は、琉球王国の政治や祭事を安定させ、繁栄の基礎を築きます。

金丸によるクーデターを経て、「第二尚氏の王統」による琉球王国の治世が始まると、沖縄本島で構築された中央集権国家体制を、宮古や八重山といった地方統治の強化を図ろうとしたため、衝突が生じています。

ここでは、琉球王国が地方を統一しようとするなかで、八重山で起きた「オヤケアカハチの乱」に関して、ご紹介します。

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琉球王国に敵対した「オヤケアカハチの乱」とは?

琉球王国の第6代国王の尚徳王が病気により急死した後、側近だった金丸がクーデターを起こし、第二尚氏の新たな王朝を誕生させます。

金丸は「尚円王」と改名して即位し、第一尚氏に対する重臣や家臣らの不満や不服を飲み込み、中国の制度を取り入れた身分制度を確立し、中央集権国家を完成させます。

そして、尚円王の跡を引き継いだ「尚真王」は、沖縄本島の有力者である按司らを首里に移住させ、宮古や八重山といった地方の統治にも影響を与えます。

具体的には、地方の有力者らに、琉球王国に服属して一部となるか、敵対して領地の権益を死守するかの選択を迫ったのです。

宮古の仲宗根豊見親は琉球王国の一部となる選択をしますが、八重山のオヤケアカハチは領地の権益を死守する決断を下しています。

そのため、琉球王国と八重山は敵対し、「オヤケアカハチの乱」と呼ばれる戦いが起きています。

「オヤケアカハチの乱」で両軍がたどった軌跡は?

琉球王国の尚真王は、沖縄の地方にも統治を広げようと圧を強め、宮古からは臣下となる使者が送られ属国を受け入れますが、八重山は敵対したため、遠征軍の派遣を決めます。

首里王府は大里按司を総大将とした八重山遠征軍を編成し、那覇港から久米島を経由し、宮古島で仲宗根軍と合流し石垣島へと向かっています。

宮古島から石垣島へは、オヤケアカハチとの対立で敗れた長田大主が案内人となり、石垣島おきに46隻の軍隻が押し寄せています。

一方、王府群勢を迎え撃つ八重山のオヤケアカハチの軍勢は、海を前に陣を敷き、簡単には攻め込ませなかったものの、夜になって登野城と新川の二手から上陸した王府軍に挟み撃ちにされ敗れています。

これら一連の「オヤケアカハチの乱」は、オヤケアカハチ軍勢が倒されただけでなく、長田大主の妹クイツバがアカハチの妻という理由で殺害される悲劇も起きています。

沖縄本島の支配が拡大した「オヤケアカハチの乱」

沖縄本島で三つの勢力が覇権争いを演じた「三山時代」から、尚巴志による琉球王国への統一で、安定した政治や祭事の実現がすすめられます。

尚巴志の死後、第二尚氏による新王朝が誕生し、沖縄本島だけでなく、地方への統治拡大を図ります。

宮古は琉球王国の一部となることを容認する使者を送りますが、八重山は琉球王国と敵対しても自領を死守する覚悟を表明します。

そんな琉球王国と八重山が衝突した「オヤケアカハチの乱」は、結果的には琉球王国の支配体制の地域拡大と体制強化を実現しています。

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