琉球王国を薩摩藩の属国にできた理由と幕府が放置したのは理由

沖縄県は日本の都道府県のひとつでありながら、第二次世界大戦の影響から長くアメリカの占領統治が続き、日本本土復帰後も在日米軍基地の問題を抱えています。

沖縄県となる前の琉球王国も独立国家でありながら、中国の明王朝と清国と君臣関係を結び、冊封国として他国の支配環境の影響を受けた国家運営を行なっています。

四方を海に囲まれた琉球王国の地理的条件から、中国、朝鮮、日本、東南アジアといった外国との交易を利用した経済力を強めて国力をあげています。

朝貢貿易の衰退によって朝貢関係が解消できたかもしれない時期に、徳川幕府傘下の薩摩藩に武力征服され、日本の統治下となった琉球王国の時代背景と幕府とのかかわりを紹介します。

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薩摩藩が琉球王国を武力征服し属国化できたのはなぜ

徳川幕府のひとつの藩であった薩摩藩が、明王朝の冊封国とはいえ独立国である琉球王国を武力征服して属国化できたのは、琉球王国と薩摩藩の島津家との経緯と、幕府が当時の状況と利害関係から薩摩藩による直接統治を認めたためです。

徳川幕府にとって、琉球王国は中国の明王朝や清国と貿易をするうえで、国王を残した状態で支配権を行使することが必要ですが、直轄支配には江戸から距離が遠いため莫大な費用と人的負担も大きいため、薩摩藩に統治を任せたと考えられます。

また、薩摩藩と琉球には、室町時代の足利義教が島津家に琉球を与える書状を与え、豊臣秀吉の時代から島津家の支配力が及んでいた経緯があり、徳川幕府を差し置いて薩摩藩が、独立国である琉球王国を属国化し、琉球国王も存続させています。

1609年に薩摩藩が琉球王国を制圧した際には、3000の兵と島津の鉄砲隊が派遣して圧倒し、琉球王国は明と薩摩藩の両属状態となります。

薩摩藩に征服される前の琉球王国が抱えていた国内事情は?

尚巴志王によって建国された琉球王国は、明王朝との朝貢貿易と中継貿易によって繁栄したものの、倭寇の跳梁、明の海禁政策の緩和による西欧列強のアジア進出などで、1500年代中盤を過ぎると衰退します。

琉球王国の国内では、尚永王の死去に伴う後継者不在により、もうひとつの王統である浦添尚家から尚寧を王として迎えますが、権力基盤は脆弱なものとなります。

権力基盤の脆弱性は、明との朝貢貿易の衰退による対日貿易依存となっていた貿易体制を、明との貿易体制強化をはかる対日強硬派が主導権を握ります。

琉球王国の国内の統制が乱れる中、日本からは島津家の台頭、豊臣秀吉の朝鮮出兵、徳川幕府からの明との間接貿易の要求と圧力が掛かります。

そんな中、徳川幕府からの間接貿易の要求を無視した琉球王国に対して、薩摩藩が幕府の許可を得て武力征服を果たし、統治下においています。

琉球王国を直接支配した薩摩藩と間接支配した幕府

沖縄本島に存在した三山を統一した尚巴志王が建国した琉球王国は、中国の明王朝の冊封国となり君臣関係を結び、朝貢貿易で経済力を強化して繁栄します。

室町時代から琉球を支配下に納めるべく動いていた島津家が、江戸時代に入ると薩摩藩として徳川家康の許可を得て琉球王国を武力征服し、属国化します。

徳川幕府のひとつの藩である薩摩藩が独立国である琉球王国を属国にできたのは、徳川幕府が直接統治する費用や人的負担から容認したためです。

琉球王国から徳川幕府へは、敬意を表す慶賀使と謝恩使が送られています。

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