琉球王国と奄美のかかわりは?

奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島の5つの島からなる奄美群島は、鹿児島県と沖縄の中間に位置し、琉球王国と大和文化が出会った場所でもあります。

沖縄本島を中心として日本の室町時代に誕生した琉球王国と同一視されがちな奄美ですが、その文化や慣習は独特な歴史的な形成過程を経ています。

平家による統治から、琉球王国への統治となり、さらに薩摩藩による支配を経て鹿児島県の行政下となった奄美は、それぞれの時代で大和文化と琉球文化が融合されながらも、その独自性は失われずに多様性が保たれ、独特の文化と慣習を生み出しています。

琉球王国に統治されたイメージが強い奄美がたどった歴史的な背景や、琉球王国とのかかわりなどを紹介します。

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日本本土と琉球に挟まれた奄美大島

奄美本島、徳之島、喜界島から発見された土器や城久遺跡群などからは、東海地方や太宰府で発見されたものと似ているため、古代から平安時代にわたって日本本土と大陸との文化的な交流とつながりが推測されます。

奄美大島の歴史が、日本の歴史書に登場するのは日本書紀で、遣唐使たちが奄美を経由して唐へ向かったことが記され、平安時代末期に起きた「壇ノ浦の戦い」に敗れた平家の平有盛が、奄美大島に流れ着き、島内や近隣の島に城を建てたとされています。

古代から平安時代には奄美群島が日本の統治下にあったと推測でき、琉球王国が誕生すると奄美は琉球王国と日本本土から侵攻により、武力衝突の場となっています。

琉球王国による制圧を受けた奄美群島は、江戸時代の薩摩藩による統治となるまでの約200年間を日本の統治下を外れることとなります。

琉球王国の誕生による奄美群島の関わりは?

1429年に琉球王国が誕生すると、奄美群島は琉球王国の侵攻を受け、琉球王国と奄美に残存していた千竈氏の武士勢力がぶつかっています。

琉球王国が、15世紀に奄美群島の全てを制圧して領土とすると、後に薩摩藩が支配権を得るまでの約200年弱の期間は、奄美群島は日本の統治下にはありませんでした。

江戸時代に入ると薩摩藩島津家の軍勢が奄美大島、徳之島、沖之永良部と次々に侵略攻撃を加え、薩摩藩が琉球王国に代わり統治を始めます。

薩摩藩は、琉球王国を支配下に収めながらも、明王朝との朝貢貿易を継続するために、琉球王国を存続させて間接統治していますが、奄美群島は薩摩藩の直轄領としています。

奄美群島のそれぞれの島では、その環境に対応した独自の慣習や文化が根付いていて、統治体制に影響を受けない部分と融合をみせた部分の両面が共生しています。

琉球王国と鹿児島の狭間で独自性を保った奄美

鹿児島県と沖縄の真ん中に位置する奄美群島は、沖縄の前身にあたる琉球王国と日本本土からの侵略の影響から、独自の慣習や文化への影響を受けながらも、その独自性を維持しています。

しかしながら、奄美大島は薩摩藩の流刑地となって以降、西郷隆盛や多くの知識人の関わりによって、島民の薩摩藩や鹿児島県に対する思いが強くなります。

一方で、与論島や沖永良部島には、琉球王国の文化と慣習が根強く残されています。

それぞれの島民に残された帰属意識は、第二次世界大戦が終結した際の本土復帰の際にも、沖縄と奄美の動向の違いにも現れています。

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