琉球王国の五偉人について

明治維新で設置された沖縄県は、その昔、尚氏が王家を継承した琉球王国と呼ばれる独立国家として存在していました。

日本では室町時代にあたる1429年に沖縄本島の三山が統一されて建国された琉球王国は、明や清と君臣関係、臣下関係を結び、終盤には日本の属国となっています。

戦国時代に天下統一へと導いた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった三人の戦国大名が三英傑と呼ばれたように、琉球王国にも琉球の歴史上で五偉人と呼ばれる人々がいます。

現代の沖縄でいわれる琉球王国の五偉人とその由縁を紹介します。

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琉球王国の五偉人と呼ばれる人たちには?

現在の沖縄県が独立国として存在した琉球王国の五偉人は、伊波普猷と真境名安興との共著で書かれた「琉球の五偉人」に取り上げられ、現代の沖縄で語られる五偉人の定義となっています。

琉球王国の五偉人には、「儀間真常」、「羽地朝秀」、「程順則」、「蔡温」、「宜湾朝保」があげられます。

それぞれの人物に、儀間真常には麻平衡、羽地朝秀には向象賢、程順則には琉球名で寵文、蔡温には大和名で具志頭親方文若、宜野湾朝保には正式呼称として宜野湾親方朝保があります。

琉球王国の五偉人には、儀間真常は第二尚氏王統琉球王国の士族で殖産家、羽地朝秀は琉球王国の政治家や歴史家、程順則は第二尚氏王統の琉球王国の士族で名護親方を務め、蔡温は琉球王国の政治家、宜野湾朝保は琉球王国末期の政治家で歌人といった肩書きがそれぞれにあります。

琉球王国の五偉人が行なったとされるのは?

儀間真常は、明と薩摩藩のそれぞれからサツマイモと木綿を琉球王国に持ち帰った人物で、琉球絣の元や砂糖の製造に関与し、琉球王国の産業に寄与しています。

羽地朝秀は、琉球王国初の正史となる「中山世鑑」を編纂し、摂政も務めて政教分離を進めており、程順則は最初の公的教育機関となる明倫堂を創設しています。

蔡温は、琉球王国の農業改革のために河川工事や山林の保護を行ない、政治家として冊封使との対応にあたっています。

宜野湾朝保は、琉球王国末期の政治家であり歌人であった人物で、琉球王国を琉球藩とする日本の方針を王に伝えたことで、売国奴扱いを受けて排斥されています。

琉球王国の五偉人が国のために働いた功績を、後の伊波普猷と真境名安興との共著によって認識された人物といえます。

琉球王国の五偉人とは?

琉球王国の五偉人とは、琉球王国のために功績を残した政治家を本職とした人物達で、伊波普猷と真境名安興との共著による「琉球の五偉人」によって定義づけされてます。

「琉球の五偉人」の定義によれば、「儀間真常」、「羽地朝秀」、「程順則」、「蔡温」、「宜湾朝保」があげられ、定義は知らずとも五偉人を知る人も多いようです。

五偉人のそれぞれが、琉球王国の農業や産業、経済、歴史、公的教育、農業改革など、政治家としての功績を残しています。

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