琉球王国が薩摩藩の島津氏に屈服し、従属するようになったのは1609年のことで、江戸時代初期のことでした。
その後、琉球王国は独立を保ちながらも明(清)と薩摩藩の影響を受けながら、政治を行っていくことになります。
江戸時代の日本では徳川幕府が中心となり、武家による政治が行われ、平和な時代として、大衆文化が花開きました。
では、当時の琉球王国はどうだったのでしょうか?
江戸時代当時の琉球王国について解説します。
目次
江戸時代の琉球王国の外交
琉球王国は徳川幕府の将軍や琉球王国の王が変わる度に江戸に使節団を派遣し、これを江戸上りといいました。
江戸上り時には琉球王国の装束をまとったといいます。
薩摩藩にも王の息子である次期国王が派遣され、これを中城王子上国といいました。
他にも琉球王国は明との貿易の上前をハネられ、薩摩藩に年貢も納めていました。
琉球王国では幕府以外にも明にも使節団を派遣し、王が変わった時には明からの冊封使を迎えることもあり、多額の経費が掛かり、国家財政は圧迫され、赤字でした。
1644年に明が清になったあとも朝貢関係に変化はなく、朝貢貿易が続けられました。
清との貿易は赤字だったのですが、やめるわけにもいきませんでした。
そのため、生産物のサトウキビなどを日本に売った利益と借金で清国との貿易を続けることとなり、経済的に薩摩藩へ依存を深めました。
江戸時代の琉球王国内政
江戸時代の琉球王国は独立を維持しながらも薩摩藩と明に支配されることになります。
薩摩藩士は以後の琉球王国では、薩摩藩の役人が常駐するようになります。
しかし、薩摩藩の役人は王府との癒着を防ぐために王府へ行くことは固く禁じられていました。
そのため、薩摩藩の役人がしたことはキリスト教が広がらないように監視をしたり、年貢がきちんと薩摩藩に届くかどうか監視をしていたというように、ほとんどが監視であり、内政に深く干渉することはありませんでした。
清が朝貢貿易を縮小しようとしたため、琉球王国では中国文化を積極的に取り入れることで、それを防ごうとし、儒教や風水などを今まで以上に取り込もうとしたようです。
中国文化を積極的に取り入れた結果、尚真王の時代には現代の琉球文化の基礎が築かれ、沖縄独自の芸術品や工芸品が生まれました。
その一方で、農民たちには重税を課せられ、植民地であった八重山といった先島諸島の人々は更に苦しい生活を送ることになります。
まとめ
琉球王国が薩摩藩の島津氏によって従属させられたのは1609年のことで、江戸時代初期のことです。
貿易で栄えていた琉球王国の貿易もこの頃には立ち行かなくなっていましたが、明と国交がなかった日本にとって、琉球を通した明との貿易は重要なものでした。
江戸時代の琉球王国は赤字である清との貿易を維持するために、薩摩藩に借金をしたり、産物である砂糖を売ったりしたので、薩摩藩に経済的依存を深めていくことになります。
江戸時代の琉球王国は日本と清という2つの国に従属しながら、独自の文化を作っていきました。