かつて沖縄県は琉球王国と呼ばれ、1429年から1879年まで存在した独立国でした。
明(清)の冊封国であり、1609年からは日本の属国となります。
そのため、明(清)と日本の影響を受けた独自の文化が特徴です。
そんな琉球王国にはどんな方が王族としていたのかを解説します。
尚寧王の弟具志頭朝盛(ぐしちゃん ちょうせい)とは?
尚寧王の弟として1578年に生まれ、1610年に亡くなりました。
1609年に琉球王国は薩摩藩に侵攻されます。
薩摩藩が何故、琉球王国に侵攻したかといえば、明と貿易をしたかったからというのが大きな理由だとされています。
侵攻の遠因としては、琉球王国が薩摩藩から借金しており、それを米で返そうとするも結局返さなかったので、薩摩藩が怒ったなどが上げられます。
当時の日本は明と国交がなかったため、薩摩藩は琉球王国を支配することで、明との貿易を牛耳り、利益を上げようとしたのです。
琉球王国は和睦という形で降伏をします。
この時、琉球王国に武器はなかったから降伏したという意見もありますが、民間商人ですら武器を持っていた時代ですから、当然、国としても武装をしていました。
しかし、小さな国ゆえに外国と徹底的に戦う余裕はありません。
降伏後、尚寧王を始め、一部の士族は捕虜として江戸へと移送されます。
その時、具志頭朝盛も江戸へと随行します。
具志頭朝盛は明と琉球王国の外交関係を悪化させないために、一時琉球王国に戻りますが、すぐに江戸へと向かいます。
駿府で徳川家康と謁見したのちに、病にて亡くなります。
その遺体は現在の静岡県の清見寺に葬られました。
その後、江戸上りの使者たちは清見寺に詣でるのが慣例となりました。
遺骨は廃藩置県後、子孫たちによって琉球王国に移されたようです。
尚思紹王
初代琉球国王尚巴志の父であり、第一尚氏王統の始祖であり、中山王国の王です。
1354年に生まれました。
この時代は三山時代と呼ばれ、沖縄本島が北山、中山、南山の三つの勢力に分かれ争っていました。
尚思紹王は南山王国に所属する鮫川大主の息子として生まれました。
若かりし頃には苗代大親と言われていたようです。
嫡男である尚巴志とともに、中山王武寧を倒します。
そして、中山王に即位し、南山王国から独立します。
その後、北山を滅ぼします。
沖縄本島の統一を見ることなく、1421年に亡くなりました。
まとめ
尚思紹王も尚寧王の弟である具志頭朝盛も同じ尚氏を名乗る王族ではありますが、血縁関係はありません。
尚思紹王の子孫である王族たちはその後、琉球王国の官僚であった金丸に滅ぼされてしまうからです。
しかし、外交的な問題から、尚思紹の子孫と血縁関係があるように見せるために、金丸は尚姓を受け継ぎ、尚円王となります。
尚思紹王とその子孫の王族たちによる王朝を、第一尚氏王統と呼びます。
金丸後の王朝を第二尚氏王統と呼びます。
具志頭朝盛はこの第二尚氏王統の王族になります。