琉球王国の大交易時代とは?終わりは?

現在の沖縄本島にあたる場所に、かつては北山、中山、南山といった三山と呼ばれる勢力があり、中山の尚巴志が3つの勢力を統一して琉球王国を建国しています。

琉球王国の初代国王となった尚巴志王から始まった第一尚氏王統とクーデターによって金丸が王位を継承して始まった第二尚氏王統は、王族の国家体制と外交の基本姿勢が同じで、朝貢貿易や中継貿易という非軍事的な貿易と外交を行なっています。

貿易による経済力の強化によって、領土を広げながら、勢力と繁栄を継続した琉球王国が、最も経済的繁栄を獲得した時期といえば、尚泰久王の時代です。

西欧においてスペインやポルトガルが主導した大航海時代と呼ばれたように、琉球王国が貿易立国として繁栄を極めた時代を大交易時代と呼ばれます。

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琉球王国の大交易時代とは?

琉球王国が建国されて、第一尚氏王統の第6代尚泰久王の時代になると、首里城に万国津梁の鐘を建設し、それ以降の周辺海域での貿易を集積する貿易立国として経済的繁栄を獲得し、大交易時代と呼ばれます。

琉球王国が繁栄した理由には、中国の明王朝が貿易での利益を放棄する海禁政策をとり、琉球王国を冊封国として、貿易による利益を集中させたためといえます。

琉球王国から中国の明王朝への朝貢品を納めることで、君臣関係を結ぶ琉球王国には明王朝から貢物の数倍の価値がある返礼がありました。

貿易による利益を追求しない明王朝を利用することで、中国の権威を受けた国内統治が可能となった琉球王国の繁栄を支えています。

琉球王国の大交易時代はなぜ終わった?

尚泰久王の時代以降に迎えた琉球王国の大交易時代と呼ばれる繁栄は、明王朝の安全保障体制や海外との貿易のあり方の変化とともに、徐々に没落します。

中国の明王朝の海禁政策が緩み、中国の商人たちが直接交易に乗り出し、ポルトガルなどの欧州各国が東南アジアに進出したための影響を受けています。

また、南米や日本から大量の銀が、フィリピン経由で中国に持ち込まれて銀の値段を下げ、それまで主要通貨として流通した銅銭から銀が貨幣の地位を占めるようになり、銀を採掘できない琉球王国は、中国との貿易での競争に不利な状況となります。

つまり、貿易競争相手にない競争力をもつ自国産品がなく、鉱物資源も無かった琉球王国は、貿易相手国である中国の対外政策の変更の影響を受けて、徐々に衰退したと考えられます。

琉球王国の大交易時代は、中国の海禁政策があった?

琉球王国の繁栄を支えた中国の明王朝との朝貢貿易は、中国の明王朝が海外との貿易の利益を放棄する海禁政策をとっていたことによるものです。

明王朝と君臣関係を結んだ琉球王国は、他の国に許された朝貢の回数の制限が緩和され、朝貢品の数倍の返礼を受けられ、付随した商人による貿易で莫大な利益を得ています。

琉球王国の大交易時代は、中国の安全保障政策と海外との貿易のあり方とした海禁政策が緩んだことにより、琉球王国は貿易相手国同士の競争にさらされて衰退し没落します。

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