沖縄本島は、日本の室町時代から明治時代までに相当する約450年間という長い年月を、琉球王国という王政の国が統治しています。
琉球王国となる以前は、有力豪族の覇権争いが演じられる戦乱の世で、「北山」「中山」「三山」の三つの地域に分かれていました。
そんな三つの地域が、尚巴志によって琉球王国として三山統一されますが、どんな経緯をたどったのでしょうか。
ここでは、尚氏が如何にして三山統一を果たし、琉球王国を誕生させたか、ご紹介します。
琉球王国が誕生するための三山統一の第一歩目は?
琉球王国が誕生する前の沖縄は、中国大陸の明王朝への進貢貿易で、中国の進んだ技術や物資の恩恵を受けて栄えています。
そんな中、沖縄南部の佐敷按司だった尚巴志が、中山の武寧王を制圧し、父の尚思紹を王位に即けたことで、第一尚氏の王統が始まります。
中山を手中にいれた第一尚氏の尚巴志は、尚思紹の在位中に北山の制圧を決め、今帰仁城に攻め込んでいます。
北山の攀安知(ハンアンチ)国王は武芸に優れていたため、尚巴志は中山の按司に協力を要請し、二千を超す連合軍を結成して攻め込んでいます。
三山統一の第一歩目となる尚巴志と中山の連合軍は、天然要塞ともいわれる今帰仁城攻めに手こずり、一気呵成には攻略できていません。
そのため、北山内部の人間に賄賂を渡し、北山の家臣らの裏切りを図る戦略を進言した臣下の護佐丸が、北山国王が信頼する臣下の本部平原に密偵を送り、賄賂を握らせて、裏切るよう唆します。
護佐丸の目論見通り、北山の今帰仁城は内部崩壊し、攀安知国王は自害し攻め落とされ、尚巴志の次男の尚忠が看守に就いています。
南山を攻略するために尚巴志が仕組んだ策略は?
尚思紹王は、中山と北山を制圧したのちに亡くなり、尚巴志が、跡を受けて中山王に即位しています。
沖縄本島の三山統一を目前にした尚巴志は、暴君の呼び声が高く、領民の人気がない南山の他魯毎王の状況を利用した策略を練っています。
難攻不落な北山を内部崩壊されたように、尚巴志は南山の他魯毎王に、領民にとっては欠かせない水源の嘉手志川と金の屏風の交換を持ちかけます。
普通なら、領民の生命線である水源の川を交換するはずがないのですが、暴君の他魯毎王は私利私欲が優先し、屏風との交換に応じ、君主としての信頼を完全に失います。
この策略が功を奏し、尚巴志は南山も制圧し、沖縄本島の三山統一され、琉球王国が誕生しています。
三山統一を牛耳っていたのは、琉球王国の尚巴志?
琉球王国の初代国王となった尚巴志ですが、戦国時代の沖縄本島の三山統一の足がかりをつけ、中山を討伐して琉球王に即位したのは、父親の尚思紹です。
中山の武寧王を倒し、北山の攀安知王に苦戦した尚巴志は、臣下に護佐丸を見出し、北山の攻略を成功させています。
北山を攻略できた経験を活かして、南山の暴君を倒した尚巴志が、三山統一と同時に琉球王国の王位に就いたのは、それまでの立場や経験を存分に活かした結果といえそうです。