尚巴志によって建国された琉球王国は、第一尚氏と第二尚氏と呼ばれる二つの王統で王位が継承されています。
第一尚氏から第二尚氏へと王統が変わったのは、伊是名島の農夫出身の金丸(のちの尚円王)がクーデターを起こし、尚徳王から政権を奪取し王位に即位し、第二尚氏尚円王となったことによります。
そのため、尚徳王は、琉球王国の第一尚氏王統の最後の国王となります。
ここでは、尚徳王がどんな人物だったのか、第一尚氏最後となった経緯などをご紹介します。
琉球王国の第一尚氏王統最後の国王尚徳王とは、どんな人?
琉球王国の第一尚氏王統の最後の国王、尚徳王は、尚泰久の第三王子として誕生していますが、正室の子ではなく、いわゆる妾腹と呼ばれる存在でした。
本来なら、王位は長兄にあたる金橋王子が継承するはずでしたが、1461年に尚徳王が兄を退けて即位しています。
国王となった尚徳王は、前王の尚泰久の信頼する臣下でもあった金丸の反対を押し切って、自ら2000の兵の軍勢を率いて、喜界島を討伐し凱旋する強気の暴君の面を表します。
その挙兵や遠征の強行には、祖父にあたる尚巴志と同様の史実が確認できますが、この強行が重臣や家臣らの信頼を徐々に失い、死後のクーデターへ繋がったとも言われています。
わずか29歳で急死した尚徳王の死には謎も多く、さまざまな伝承が残されています。
琉球王国で2人の国王に仕えた金丸とは?
琉球王国の王位争いで勃発した「志魯・布里の乱(しろ・ふりのらん)」の後、尚泰久が王位に即位しています。
その尚泰久に仕えていた農夫出身の金丸は、次の国王となった尚徳王にも仕えますが、その暴君ぶりに対する不満が燻り続け、尚徳王の死後クーデターを引き起こします。
国王を側近として支えた金丸は、尚泰久に見込まれ重要な役職を任されながら、尚徳王に仕えるとその強引さ暴君ぶりに、一旦は職を辞して内間の領地に隠棲しています。
ところが、尚徳王の急死により、家臣らの推挙を受けて第二尚氏王統の扉を開いたとされ、尚徳王の暴君ぶりは、多くの重臣や家臣らの共通認識だったようです。
琉球王国の第一尚氏王統の終焉は、尚徳王の暴君ぶりが影響
有力豪族たちの覇権争いが続いた「三山時代」を、琉球王国の誕生によって王制統一した尚巴志の王統は、尚徳王の死後に転機を迎えます。
尚巴志と同様、自ら軍を率いて戦場に乗り込み凱旋した尚徳王は、重臣や家臣らの忠言を聞かない暴君ぶりが、喜界島の討伐をキッカケに徐々に信頼を損ねていきます。
そんな暴君ぶりは、わずか29歳という若さで急死した尚徳王の死後、側近だった金丸が第二尚氏の始まりとなる尚円王に即位した経緯にも現れています。