琉球王国の第二尚氏初代国王の尚円王とは?末裔は?妻は?墓は?

独立した王制国家だった琉球王国は、薩摩藩の島津による侵入で日本の実質統治下に置かれながらも、明治政府による琉球処分を受けるまで繁栄を遂げています。

そんな琉球王国の王朝を継承した王党には、第一尚氏と第二尚氏と呼ばれるふたつの王統があります。

戦乱の世だった沖縄本島の三山統一によって、尚巴志が琉球王国をつくり親族で王位が継承されますが、農民出身の金丸のクーデターによって、第二尚氏の王統となっています。

時代の潮流によって激動の歴史を刻んだ琉球王国の転換点ともなった第二尚氏の尚円王と妻、そして末裔、墓などについて、ご紹介します。

■琉球王国の王統を変えた尚円王とは?

尚思紹が沖縄本島の中山の勢力を抑え琉球王となり、その後を受けた尚巴志によって北山が統一され、琉球王国の国王に即位します。

尚忠、尚思達、そして尚金福へと受け継がれた第一尚氏の王統は、尚金福の死後、王世子の志魯と王弟の布里が王位を争って戦い両名とも亡くなり、尚泰久に王位が継承されます。

尚泰久の跡を継いだ尚徳は、妾腹でありながら長兄の金橋を退けて即位する横暴さが、王位となっても喜界島への出兵強行など、暴君ぶりをみせています。

そんな尚徳王の横暴ぶりは、死後に金丸らが起こしたクーデターや、その後の王位継承の経緯にも影響しています。

尚徳王から農民出身でありながら王位に就く金丸は、それまでの王統の慣習を受け継ぐといった理由で、尚円王として第二尚氏の王統へと時代を変えています。

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尚円王の死後、琉球王国の王府に君臨した宇喜也嘉とは?

尚巴志の血を受け継ぐ第一尚氏は尚徳で途絶え、「金丸」改め「尚円王」が第二尚氏初代国王となり、三十歳年上の妻「宇喜也嘉(オギヤカ)」がファーストレディとなり、強権ぶりをみせます。

62歳で亡くなった尚円王の跡を受け、幼かった尚円王の息子の代わりに弟の尚宣威が王位を継ぎ、新国王の即位式に臨みます。

ところが、尚円王の妻の宇喜也嘉は、わずか12歳だった息子の真加戸樽金を王位につけるため、即位式で神歌を尚宣威ではなく真加戸樽金に対して歌い、尚宣威を精神的に追い込んでいます。

その結果、尚円王の妻の思惑通り、尚宣威は王位を宇喜也嘉の息子に譲り、首里を離れて隠居し、翌年亡くなっています。

わずか13歳で国王となった尚真王に直接の政治など行えるはずもなく、母親であり、尚円王の妻である宇喜也嘉が女帝として琉球王国に君臨しています。

尚円王が亡くなっても実権を握った宇喜也嘉の強かさは、激動の潮流に呑み込まれる末裔にも引き継がれ、琉球王国が滅亡した後も、東京へ移住し華族や侯爵の位を得ています。

第二尚氏の末裔らは戦後には一般人となり、日本宅建公団の理事だった尚明氏や、女優の比嘉愛未さんも琉球王朝の末裔といわれています。

ところで、尚真王は父の尚円王を祀るために、首里城守礼門の西の一画に大型の墓地を作らせています。

今では世界遺産にも認定されている玉陵が尚円王の墓であり、当時の宮殿を模して作られた石造りの墓は、第二次世界大戦では被害を受けながらも、今に歴史を伝えています。

琉球王国の王統を変えた尚円王と妻の強かさは?

琉球王国をつくった尚巴志の血筋による王位継承は、横暴な国家運営を行なった尚徳王の死後、農民出身の金丸らのクーデターにより、第二尚氏王統を生み出します。

第二尚氏の初代国王には「金丸」が改称し「尚円王」となって即位し、三十歳年上の妻が尚円王の死後、幼かった尚真王を前に置きながら実権を握っています。

そんな強かさは、その後の激動の歴史の中を生きた、明治以降の日本の華族や侯爵の位を得た末裔達にも引き継がれたといえそうです。

また、第二尚氏の墓となっている玉陵は、尚真王によってつくられ、世界遺産にも認定されています。

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