琉球王国に起きた王位をめぐる乱とは?

戦国時代の武将たちの多くが後継問題から乱が起こることも多く、約500年にわたり続いた琉球王国においても、王位をめぐる争いから乱が起きています。

琉球王国の第一尚氏王統の第5代尚金福王が亡くなった後、王位をめぐって世子の志魯と弟の布里の間で争いとなり乱が起き、王位を尚泰久が継承しています。

王位をめぐる争いで乱が起きたことで、琉球王国府に対する不審を招き、尚泰久王が王位を継承しても権力基盤は脆弱なものとなり、地方の有力按司がせめぎ合う状況を生み出しています。

琉球王国において、王位をめぐる争いで起きた志魯・布里の乱と、これにより不安定となった国内状況から按司のせめぎあいで起きた護佐丸・阿麻和利の乱について紹介します。

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琉球王国の後継者問題から起きた志魯・布里の乱

琉球王国を建国した初代尚巴志王が亡くなって、わずか15年の間に、尚忠王、尚思達王、尚金福王の三人に王位が継承され、頻繁に国王が交代しています。

国王の短期間での交代は、国王や王族に対する不審を招き、中国の明王朝の冊封国である琉球王国と交流する周辺諸国への疑心も招き、好ましい状況ではありません。

そんな中、第一尚氏王統の第5代尚金福王の死後、世子の志魯と弟の布里の間で後継者争いとなり、志魯・布里の乱と呼ばれる戦いが起き、この乱で首里城は焼失し、志魯と布里の双方が亡くなり、王位は尚泰久王が引き継いでいます。

後継者問題は、いつの時代にも顕在化して争いとなることも多いものの、琉球王国での志魯・布里の状況は、国内不安と対外的な信用を揺らがせ、有力按司の争いを生んでいます。

琉球王国の志魯・布里の乱から起きた有力按司の争い

尚金福王の王位継承をめぐる争いで起きた志魯・布里の乱は、世子と弟の当事者双方がなくなって終結しますが、これにより尚泰久が王位を継承して第6代国王となります。

乱の後を受けて即位した尚泰久王の権力基盤は不安定なものとなり、護佐丸や阿麻和利といった地方の有力按司の勢力争いが起きます。

尚泰久王は、首里城を陥落させ王位就任を狙っていた阿麻和利の元に娘の百度踏揚を嫁がせ、忠臣の護佐丸を座喜味城から中城城の按司にして牽制します。

阿麻和利は、尚泰久王のこれらの措置に対して、護佐丸に謀反の疑いがあると嘘の進言をし、尚泰久王は護佐丸が軍備を整えているとして阿麻和利に討伐を命じ、護佐丸は謀反の意図がないことを示して自刃します。

阿麻和利は護佐丸討伐後、尚泰久王を狙いますが、百度踏揚と越来賢雄によってもたらされた情報によって、尚泰久王は阿麻和利を討っています。

後継者問題で琉球王国に起きた乱と有力按司の争い

尚巴志王が建国した琉球王国の王位をめぐる争いが、第一尚氏王統の第5代尚金福王の没後、世子の志魯と弟の布里の間で争いとなり、志魯・布里の乱が起きます。

この乱により、当時の首里城は焼失し、当事者の双方が乱による傷を負い亡くなっていて、尚泰久が王位を継承しています。

乱の後を受けて王位を継承した尚泰久王の権力基盤は脆弱なもので、地方の有力按司の勢力争いを招き、その中でも護佐丸と阿麻和利の二人による内乱も起きています。

護佐丸・阿麻和利の乱は、阿麻和利の諜報により撹乱された尚泰久王が結果的には、阿麻和利を討ち取り集結しています。

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