琉球王国の歴史を語る時、よく貿易で栄えたと言われます。
しかし、貿易で栄えたのは15世紀から16世紀の初めまでと短い期間でした。
その時、琉球がしていたのは中継貿易と呼ばれたものです。
この中継貿易とはどういうもので、どのような手法で、何故衰退をしたのかを解説します。
中継貿易とは?
中継貿易とは琉球王国が購入したA国の品をB国に転売することを言います。
A国とB国が直接取引をせずに、琉球王国が真ん中に入ることで、A国とB国の品がやり取りをされる仕組みです。
何故、A国とB国が直接取引をしないかというと、A国の法律にあります。
琉球王国にとってのA国とは明でした。
明は倭寇と呼ばれる海賊対策などを兼ねて、海禁政策という海上利用の規制を行いました。
これには貿易も含まれていて、商人たちは外国との自由な貿易が出来なくなりました。
明は朝貢国が朝貢してきた時だけ貿易することを許しましたが、これでは自由に取引が出来ないと国内の商人たちの不満が高まりましたので、琉球に無償で大型船を与えるなどして、海洋貿易国として育成することにしました。
このため、琉球以外では10年に1度といった機会しか朝貢を許可されなかったという国もあったのですが、琉球には毎年の朝貢を許可しましたし、一時期は年に回数を設けずに朝貢することも出来ました。
明の商人たちは琉球が朝貢をしてきた時に、琉球と貿易をすることが出来たので、いくらか不満も抑えられました。
琉球王国に年に何度も朝貢を許した理由としては明が北方のモンゴルに備えるために、琉球王国の馬や硫黄が必要だったからという事情もあったようです。
最盛期の15世紀には琉球王国は日本、明、朝鮮、台湾、東南アジア各国と貿易を行い、中継貿易の地として栄えたと言われていますが、実態は売った代金で明への貢物を購入していたようです。
琉球王国は自国の産物に乏しかったために、外国から貢物を購入するしかありませんでした。
中継貿易の衰退
琉球に利益をもたらした中継貿易ではありますが、繁栄はいつまでも続きませんでした。
明からの大型船の支援もなくなり、明の国力の低下に伴い、朝貢貿易は縮小した上に、広州が開港され、明の商人たちも朝貢貿易以外の貿易の道が開かれました。
それ以外にも東南アジアのジャカルタをポルトガルが征服し、他の西欧列強も東南アジアに進出し、琉球王国は1570年には東南アジアから完全に撤退しました。
1609年には薩摩藩の島津氏に琉球王国は従属させられました。
薩摩藩の狙いは琉球王国を利用して、明と貿易を行うことで、戦国時代の時に出した損失を補填するというものでした。
当時の明と日本は国交がなく、長崎の出島に明の商人が来るくらいのものでした。
その後、1644年に明が清になっても琉球王国との間で行っていた朝貢貿易は赤字ではありましたが、やめるわけにはいかず、日本との貿易の利益と島津氏とその御用商人からの借金をして続けることになります。
●まとめ
中継貿易とはA国から輸入した品をB国に転売することをいいます。
琉球王国は最盛期には明、日本、朝鮮、東南アジア各国と交易をしていました。
しかし、16世紀には明が朝貢を縮小したり、ポルトガルの東南アジア進出などの情勢変化により、徐々に中継貿易における琉球王国の価値は低下していくことになります。