琉球王国は1429年から1879年の約450年間に存在し続けた王国で、現在の沖縄県に当たります。
そんな琉球王国は海洋国家として貿易を行っていました。
そのため、様々な国と外交関係を持っていましたが、特に関係が深いのは明です。
琉球王国と明はどのような関係だったのかをご紹介します。
朝貢貿易の始まり
琉球王国が成立する前、琉球は三山時代と呼ばれ、北山、中山、南山の3つの勢力に分かれ、戦っていました。
いわば内戦状態でしたが、中山が優勢となり、北山と南山を征服し、統一しました。
この琉球王国が中山だった時代に明に求められて始めたのが、朝貢です。
この朝貢とは明に貢物を持っていくことで、その見返りとして、様々な物品を明から恩賜として賜るというものです。
貢物を積む船以外にも船があり、こちらにも物資を積み込み、こちらは明国内で売り捌きます。
これを朝貢貿易と呼びます。
明はこの世界では自分が一番なのだという中華思想により、貢物を持参した国以外との明国内での貿易は許しませんでした。
朝貢貿易は貢物を持っていくオマケに貿易が出来るのです。
この当時、明は海禁政策により海上利用を規制しており、民間の商人は貿易をすることが難しい状況だったので不満が高まっており、琉球に朝貢貿易を優遇することで、明の商人が琉球と貿易をする機会を増やすことで、不満を抑えようとしました。
この頃、明は琉球に大型船や技術者を無償供与したほどです。
これには他にも、北のモンゴルに備えるために琉球の馬や硫黄といった産物が必要となったという事情もありました。
朝貢は明が指定した2年に1度といった機会にだけ行うといった決まりがあるのが普通ですが、この当時は琉球王国に限り、回数無制限で朝貢が行えました。
物資が欲しかった明と、明の威光が欲しかった中山との思惑が一致したともいえます。
冊封関係
明と朝貢貿易を行うためには冊封関係にならなければなりません。
冊封とは支配者同士で主従の関係を結ぶことです。
中国はこの冊封関係を周辺諸国と結び、日本でも室町時代の頃は行っていました。
明は琉球王国が琉球を統治することを認める一方で、琉球は明の臣下であることを認めるという契約で、明から支配を受けることになります。
中山が沖縄本島を統一し、琉球王国が建国されたのは1429年のことでしたが、この時、明から琉球という国名と尚という姓と琉球王という爵位を与えられました。
これにより、琉球王国の王族は以後、尚姓を名乗ることになります。
琉球王国の王が代わった時などは明から、新しい王を王として認める冊封使と呼ばれる使者がやって来て長期滞在したと言います。
この冊封使立会いの下で戴冠式を行い、新しい王として認められたのです。
沖縄の有名な守礼門は冊封使を出迎えるための門で、到着すると王や高官たちが三跪九叩頭の礼と呼ばれる額を地面につけるお辞儀をしました。
三跪九叩頭の礼は本来、中国の皇帝の臣下たちが皇帝に対して行う礼になります。
まとめ
明と琉球王国の関係を簡単に書くと、主人と家来の関係になります。
この場合の主人は明で、召使いは琉球王国です。
琉球王国は三山時代に中山という国名だった頃から、明に求められ、冊封を受け、朝貢貿易を始めました。
明との冊封による支配は形式的なものであり、貿易をするためには必要なことでした。
冊封さえしておけば、明に侵略されることはないので、琉球にとって大きなデメリットはありません。
この冊封関係は明が清になっても続きました。