1429年に尚巴志王が初代国王となって建国された琉球王国は、中国の明王朝と君臣関係を結び、冊封国として朝貢貿易を行い繁栄を築いています。
琉球王国は、中国との朝貢貿易に加えて、東南アジア諸国、朝鮮、日本といった周辺諸国との中継貿易も行ない、外交も多岐にわたります。
中国の冊封体制の一員であった琉球王国は、薩摩藩の侵攻を受けて属国となるものの、朝貢貿易の継続を望む薩摩藩の意向で王制が維持され、両属状態となります。
両属状態にある琉球王国には、欧米諸国が接触に苦悩し、アメリカやフランスが訪れており、琉球とフランスと日本のかかわりを紹介します。
欧米諸国の中で最初に交易を求めたフランス
鎖国体制にあった徳川幕府の元に、アメリカ海軍ペリー提督の黒船が浦賀沖に姿を現す前に、琉球王国を訪れていますが、フランス軍はその9年程前に訪れています。
ペリーの黒船で日本に来航する時期といえば、琉球王国は薩摩藩の支配下にあり、鎖国体制をとる江戸幕府の影響を受けていて、それ以前に訪問をしたフランスは、船の難破を偽装して上陸するという苦肉の策を講じています。
琉球王国は、フランスからの交易要求を拒否し、幕府へも報告し、再度の要求に対しても拒否を貫いています。
琉球王国のフランスとの交易拒否は、幕府にとって戦争の火種となる可能性を秘めていたため対応を苦慮しています。
琉球王国がフランスとの交易を拒否した幕府の対応は?
琉球王国が薩摩藩に武力征服されて属国となっていたため、フランスからの交易の要求とこれを拒否したことが、薩摩藩から幕府へと報告されています。
報告を受けた幕府は、交易拒否した琉球王国の対応に、フランスと日本の戦争の可能性に怯え、琉球王国は異国でありフランスとの交易は、薩摩藩の判断に一任するという責任転嫁ともいえる判断を下しています。
一旦は引き下がったフランスは再度、琉球王国に対して交易を要求しますが、琉球王国は重ねて拒否し、フランスは諦めて撤退しています。
琉球王国にとって、朝貢貿易による中国との関係を優先した判断のために、フランスを頑なに拒否したと考えられます。
琉球王国と偽装難破で上陸したフランスと日本の関わり
清国の冊封国であり、薩摩藩の属国となっていた琉球王国に、欧米諸国の中で最も最初に上陸したのがフランスで、交易の要求をしています。
琉球王国の対応を、薩摩藩を通じて知った幕府は、フランスと日本が戦争になることを恐れ、苦肉の策として、琉球王国は日本ではなく異国であるとし、判断を薩摩藩に投げ出しています。
本来なら、薩摩藩が武力征服して属国とした琉球王国の対応に対する判断を下すべき幕府が、外交交渉することなく、薩摩藩に丸投げした姿勢は、建国以来大国を相手に外交と貿易を重ねてきた琉球王国よりもスケールの小ささを感じさせ、のちの不平等条約締結もうなずけます。