現在の沖縄県は島の集合体ではありますが、琉球王国が建国された1429年の頃は沖縄本島と周辺の島が主な領土でした。
つまり、当初は宮古島や石垣島といった八重山諸島は琉球王国ではなかったのです。
どのような経緯で八重山諸島が琉球王国となったのかを解説します。
オヤケアカハチの乱
八重山と沖縄本島との関係が始まったのは1390年のことで、琉球王国が中山と呼ばれる勢力だった時代にさかのぼります。
八重山の勢力が中山に進貢をしたのがキッカケです。
この状態では八重山は中山に貢物を持っていく程度の関係でした。
この関係に変化がないまま、1500年になりました。
琉球王国は尚真王が治めており、中央集権化を進めていた頃で、八重山には複数の豪族がいて、群雄割拠の状態だったようです。
オヤケアカハチという豪族が琉球王国への進貢を3年間拒否ししたため、オヤケアカハチの勢力拡大を恐れた他の豪族と琉球王国に討ち取られてしまいます。
これをオヤケアカハチの乱と呼びます。
琉球王国が軍を出した理由としては3つあります。
・オヤケアカハチの勢力拡大により外国との貿易に差し障るようなことがあってはならないと危惧したこと。
・八重山からの貢物がなくなることを危惧したこと。
・八重山を王国の勢力圏化に置く機会を窺っていたという事情から、武力行使に踏み切ったようです。
これを契機に、八重山は琉球王国の植民地化していくこととなります。
人頭税で苦しんだ八重山諸島の人々
八重山の人々は琉球王国に人頭税を課されることになります。
これは収入や土地に関係なく、1人辺りの納める税金は変わらないというもので、収入がない年などは支払うことが困難になるというものでした。
当初は1人に掛けられたものが集落単位になったので、人口がどれだけ減っても納めなければならない税は変わりません・
始まりは1609年の薩摩藩の島津氏の侵攻により、薩摩藩に年貢を納めなければならないために人頭税を始めたとされていますが、人頭税はそれ以前からあったという説もあり、詳しい開始時期は分かりません。
人頭税は世界中にあり、主に古代で行われたものでした。
そして、琉球王国には多くの明人が官僚として登用されていました。
その明は丁銀と呼ばれる人頭税を導入していましたから、琉球王国も島津氏侵攻以前から始まっていたとしても不思議ではありません。
薩摩藩への年貢を口実として、負担が重くなった可能性もあります。
八重山の人々は王府が定めた年貢以外にも役人が支払う税金なども負担させられたといいます。
まとめ
日本本土の人間からしてみれば、八重山群島も沖縄本島も同じ沖縄県ですが、その歴史は支配者と植民地の関係です。
そのため、今でも沖縄県の中では沖縄本島、宮古島、石垣島の間では明確に意識の違いがあるといわれます。
八重山の老人の中には、「沖縄本島は税金を搾り取るだけ搾り取って、災害などが発生した時、助けてくれなかった」とおっしゃる方もいるそうで、歴史の中で生まれた溝が今も残っていることを感じさせます。