かつて沖縄県は琉球王国という独立国で、1429年から1879年までに存在しました。
治めていたのは尚氏と呼ばれる一族で、初代王は尚巴志といいます。
ところで、この尚氏は第一王統と第二王統と2つの王統に分かれていて、どちらの王統でも尚氏を名乗っています。
何故、尚という同じ姓を名乗る一族なのに、第一と第二に分かれているのかを解説します。
第一尚氏王統とは?
琉球王国は1429年以前は中山、北山、南山の3つの勢力に分かれ、争っていました。
この時代を三山時代と呼びます。
南山の尚思紹と尚巴志親子は南山に所属していた按司(あじ)と呼ばれる権力者でしたが、中山を打倒し、中山王となります。
その後、尚思紹の後を継いだ尚巴志は中山の王として北山と南山を倒し、沖縄本島を統一します。
これにより、明から琉球王国の国号と尚という姓を賜り、琉球王国が建国されます。
以後、尚巴志は72歳で亡くなるまで琉球王国を統治しました。
しかし、その後の王たちはいずれも短命で、政権が不安定化してしまいます。
按司と呼ばれる豪族たちが台頭してきて、琉球王府も危機感を覚えるほどで、最終的には内乱に発展しています。
内乱鎮圧後に第6代目の王である尚泰久も死去し、新たな王も若くして亡くなってしまいます。
その後、クーデターが発生し、1469年に第一尚氏王統は途切れることになります。
第二尚氏王統とは?
第二尚氏王統の祖は金丸という人で、王となってからは尚円と名乗ります。
公式文書では第一尚氏王統の血縁ということになっていますが、血縁関係はありません。
元は、第4代王尚思達が王子時代に高級官僚に推薦された仕官です。
何故、自らが滅ぼした王統を引き継いだかというと、宗主国である明に配慮をしたからだとされています。
明との関係がこじれることを恐れたのでしょう。
しかし、明もクーデターによる政権交代が行われたことは分かっていましたが、明本国に危険がないこととややこしいことにならなければいいというスタンスだったので、尚円王を認め、第一王統と同様の関係を続けます。
基本的に第二尚氏も第一尚氏の政策を引き継ぎ、琉球王国が滅びるまで存続することになります。
まとめ
琉球王国の王族は尚姓を名乗っていましたが、尚氏には2つの王統があります。
琉球王国初代王の尚巴志を始祖とする第一尚氏王統とクーデターにより第一尚氏王統を滅ぼした尚円王を祖とする第二尚氏王統です。
尚円王は正統性を主張するため、第一尚氏王統の血縁であると公式文書ではなっていますが、実際にはありません。
尚円王が第一尚氏王統の人々を粛清したことがその証拠だとされています。
その理由はもしも血縁関係があるのならば、先祖信仰が強い琉球王国では同族の粛清は行わないはずとされているからです。
第一尚氏王統の人々は根絶やしに近い状態にまでされたといわれますが、生き残った第一尚氏王統の一族たちは落ち伸びた先で、ひっそりと暮らしたといいます。