琉球王国と朝鮮王朝は、ほぼ同時期に存在し滅亡を迎えた共通点があり、国の在り方や周辺国との関わり方などに類似する点があります。
琉球と朝鮮との間には、琉球王国誕生前の1389年に中山の察度王が朝鮮へ使者を出したことをきっかけに交流が始まっています。
琉球と朝鮮のそれぞれに琉球王国と朝鮮王朝が誕生し、中国の明王朝や清国との関わりや、日本との関わりにも類似点と相違点があります。
日本との関わりによって生まれた庶民感覚の類似性や、琉球王国と朝鮮王朝の関わりなどについて紹介します。
琉球王国と朝鮮王朝の類似点には?
かつて沖縄本島には、北山と中山と南山といった領主を束ねた3つの国の時代から、中山の尚巴志が北山と南山を武力制圧して統一し、琉球王国を1429年に建国しています。
朝鮮王朝は、1392年に高麗の武将李成桂が恭順王を廃して、高麗王に即位して成立させた王朝で、その翌年に中国の明王朝から、朝鮮という国号をされています。
琉球王国が中国の明王朝に対して君臣関係を結んだのと同様に、朝鮮王朝もまた、国号を明王朝から授かって数年後には君臣関係を結んでおり、独立国でありながら、中国の冊封国として成立している共通点を持ちます。
両国の交流は、琉球王国建国前の三山時代に中山の察度王が、倭寇に捕らえられた朝鮮人を高麗に送還するために、朝鮮へ使者を送ったことで始まっています。
朝鮮沿岸には倭寇の危険性があったため、朝鮮から琉球へ向けた交易船はなかったものの、琉球船は奄美諸島から九州西岸、対馬を経由して釜山に至る経路をたどり朝鮮へ向かっています。
琉球王国と朝鮮王朝の滅亡には?
琉球王国と朝鮮王朝は、中国の明王朝や清国が多大な影響を受けながら貿易による経済力を強化することで繁栄しています。
琉球王国と朝鮮王朝との間にも進貢関係が結ばれ、琉球には朝鮮からの物品だけでなく高麗大蔵経といった文化的な影響を受け、両国の交流は日本による朝鮮併合まで続きます。
明王朝が貿易での利益を放棄する海禁政策の緩和したことで、ポルトガルやスペインなど西欧との貿易取引が増え、琉球王国は朝貢貿易での利益が減り、勢力を弱めていきます。
1401年に明王朝が正式に朝鮮王朝を冊封国とし、中国王朝が明から清へと変わっても体制は変わらなかったものの、1894年の日清戦争後に締結された下関条約により、朝鮮王朝は清王朝の冊封国ではなく独立国となり、それ以降日本の影響下に置かれています。
朝鮮王朝の国家は、その後の第一次から第三次にわたる日韓協約を経て日本に併合されて消滅しています。
琉球王国と朝鮮王朝の繁栄と滅亡には、中国の明や清国、日本が多大な影響を与えています。
琉球王国と朝鮮王朝の栄枯盛衰には、中国と日本の影響があった
領土の多くを海に囲まれた琉球王国と朝鮮王朝は、国の成り立ちに中国の明王朝や清国が大きく関与し、それぞれの国は中国との君臣関係を結び、冊封国となっています。
君臣関係を結ぶことで可能となる朝貢貿易を利用して、経済力と武力といった国力の強化をはかり繁栄を遂げますが、中国の貿易体制の変化によってその勢力は弱まり、中国から日本の影響を多大に受けるようになります。
琉球王国が日本の薩摩藩の統治下となり、朝鮮王朝は中国の冊封国から離脱して近代独立国となるものの、日韓協約を経て日本に併合されています。
独自の産業や鉱物資源に恵まれなかった琉球王国と朝鮮王朝は、外国との貿易に依存した繁栄を選択していたため、その滅亡にも外国の影響を受けています。