かつて沖縄県は琉球王国と呼ばれ、1429年から1879年まで存在した独立国です。
明や日本の影響を受けながら、独自の文化を築いていました。
服装も日本や明から影響を受けた琉服と呼ばれる民族衣装を着ていました。
それはどのようなものだったのかをお伝えします。
有力士族や王族の服装は?
日常生活では琉服と呼ばれる服装をしていました。
見た目はゆったりとした和服といった印象です。
紅型(びんがた)と呼ばれる鮮やかな染色方法で染められた紗綾綿衣(サヤワタンス)は有力士族や王族の礼装でもありました。
婦人は礼装や着飾る時には更に打ち掛けを羽織りました。
身分の高い人々の琉服の素材は絹や木綿も使われたようです。
普段は琉服ですが、男性は明の使者が来るような公式行事を行う時などは冠服を正装として来ました。
冠服とは昔の中国の重要な行事の時に着られた服のことで、冠などによってどれくらいの位の者か分かるようになっています。
この冠服は皇帝からの下賜が基本だったらしく、琉球王国の王尚巴志は「40年前にもらった冠服はボロボロなので、新しいのを下さい」と要請しています。
この冠服はブーツを履き、全身を覆うタイプの服なので、南国の琉球王国ではとても暑い上に窮屈だったので、行事が終わると皆、脱いだと言います。
琉球王国の庶民の服装は?
基本的なデザインは上流階級の人々と同じですが、素材は麻や芭蕉を利用しました。
芭蕉の布は糸芭蕉から作られるもので、庶民階級においては家庭菜園で育てた糸芭蕉から糸を作っていたといいます。
農民や漁民といった人々の仕事着は動きやすいように丈が短いもので、袖の幅も上流の人々に比べれば少なくなっていて、柄は細かい縞か無地のものでした。
庶民は厳しい税の取り立てにより、衣食住を賄うのが大変だったようです。
紅型は庶民では入手自体難しかったと思いますが着用を許されなかったので、着る機会はありませんでした。
まとめ
琉球王国の服装は琉服と呼ばれるものです。
見た目はゆったりとした和服といった印象です。
王族や有力士族は礼服として紅型(びんがた)で染色をした琉服を着ていました。
男性の場合、中国からの使者を迎えて行うような公式行事の時は冠服と呼ばれる中国の装束を着ました。
この冠服は自分たちで作ることは出来ず、一方の農民や漁民といった人々は家庭菜園で育てた糸芭蕉から糸を作り、織った布で服を作っていました。
働きやすいように丈が短いものだったそうです。