沖縄といえば、第二次世界大戦の最後に上陸した米軍から襲撃される映像を連想する方も多いのではないでしょうか?
全面降伏を余儀なくなされ沖縄の状況は、薩摩藩の軍事侵略に無抵抗だった、あるいは一貫して和睦を求め、全面的な抵抗をしなかったとも言われる状況も想起させます。
薩摩藩による侵攻と、明治政府による「琉球処分」によって日本となった沖縄、そして琉球王国は、軍事力を持っていなかったのでしょうか?
ここでは、琉球王国が軍事力をどれほど保有していたのか、あるいは保有していなかったのか、ご紹介します。
琉球王国が薩摩藩の侵攻に敵わなかったのは、なぜ?
琉球王国となる以前の沖縄本島では、「北山」「中山」「南山」と呼ばれる三つの地域で、有力豪族の按司による支配がそれぞれ行われ、豪族同士の覇権争いが繰り広げられています。
尚巴志によって沖縄本島が統一され誕生した「琉球王国」には、首里王府の元に数千人規模の軍事組織が形成され、有事の際の対処法などの軍事制度の規定も確認されています。
そんな軍事組織を持ちながら、薩摩藩の島津軍による侵攻に対して抵抗していますが、敵わなかったため、琉球王国には軍事力がなかった、あるいは、保有していなかったという解釈があります。
これは、戦国時代での戦闘に加え、朝鮮での戦いなどの多くの戦闘を経験した島津藩の精強な軍団と、実践経験の少ない琉球王国の軍の実力差だったと推測されます。
琉球王国が対峙した敵国の戦禍から推測される軍事力は?
沖縄本島で中央集権の王制支配を続けていた「琉球王国」が、薩摩藩の上陸侵攻を容易に許したように見受けられますが、「陳侃使琉球録」によれば、敵国の侵攻に対する予防策を考慮していたことがわかります。
その予防策は、琉球王国では「弁才天」と呼ばれる六臂の女神の霊異が著しく、誰もが祀り敬っていて、女神がいるから大丈夫という迷信のような内容が記述されています。
しかも、「喜安日記」にも、琉球王国では弓や矢といった名称すらきがず、女神の祈願が戦う術だったという記載があり、軍事力に対する認識も、当時の周辺国とは違っていたようです。
とはいえ、沖縄本島北部で衝突した薩摩藩の島津軍と琉球王国の軍勢は、琉球軍の半数が失われ、尚寧王が和睦を申し入れ、わずかひと月で琉球王国は制圧されています。
しかしながら、三千の軍勢を率いた島津の兵の二百人が戦死した記録からは、琉球王国が島津藩の侵攻に対し、戦わずして負けたというのは違うようです。
琉球王国が軍事力を持たなかったといわれるワケ?
薩摩藩による侵攻を受け、明治政府によって日本の「沖縄県」となった「琉球王国」は、侵攻された際に大した抵抗しなかったというより、敵わなかったというのが実情のようです。
「女神への祈願」が他国の侵攻に対する予防策と中国の明王朝とのやり取りに公言するほど、琉球王国の軍事力に対する認識は、当時の周辺国とは違っています。
しかしながら、数千人の軍事組織を形成し、有事の軍事制度の規定も存在した琉球王国は、侵攻してきた島津藩の兵を二百人倒しており、それなりの軍事力を保有していたと考えるのが妥当です。