琉球王国をめぐる日本と清の争いの決着、琉球処分とは?

沖縄本島にかつてあった三山を統一して建国された琉球王国は、1609年に薩摩藩による武力征服を受け、中国の明王朝との君臣関係である冊封関係とともに薩摩藩の属国にもなっています。

徳川幕府15代将軍慶喜の大政奉還と王政復古の大号令により、江戸幕府から明治政府となった日本は、それまで長く続いた封建制度による士農工商の身分制度が廃止され、幕藩体制の基盤となっていた大名が支配する藩を廃止し、明治政府が直轄する県を設置する廃藩置県を行なっています。

明治政府は、薩摩藩が属国として支配していた琉球王国に対して、琉球王朝から琉球藩、沖縄県と廃藩置県を進めていて、これらの政策が琉球処分と呼ばれています。

琉球王国には、冊封関係を結んでいた清国、薩摩藩の直接支配とが共存する両属状態にあったため、国の在り方が大きく変わった日本が、琉球王国の領土と領有を明確化するためにも琉球処分を行なったと考えられます。

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明治政府の廃藩置県の一環として行われた琉球処分

現在の沖縄県が誕生した琉球処分は、明治政府となった日本が、それまで薩摩藩による支配と清国の冊封関係の両属状態を脱して、琉球王国が日本の領土と領有であることを明確にしています。

琉球王国に対して行われた琉球処分は、日本本土で行われた廃藩置県の一環で行われていますが、琉球王国と江戸幕府の統治体制は大きく違い、体制変更には王家の抵抗を受けています。

琉球王国から琉球藩とされた際には、それまでの清国との外交継続を明治政府に求め、政府はその要求を拒否しています。

琉球藩から沖縄県の設置に応じない反応に対して、琉球処分官に任命された松田道之が、武力制圧を背景にして首里城に乗り込み、廃藩置県の通達を行なっています。

琉球処分による清国の反発とアメリカの調停は?

明治政府の琉球処分により、琉球藩が廃藩となり日本の沖縄県として設置されると、琉球王国を自国の属国として認識していた清国は反発を強めます。

琉球王国の領有をめぐって日本と清国が対立して緊張状態となり、アメリカ元大統領のグラントが調停役を務めて日清両国での交渉が行われます。

両国の調停役、アメリカ元大統領のグラントは、沖縄を二つに分けて先島諸島を清国に譲り、日清修好条規を改めて、日本にも欧米と同じ特権を与えるという案を提示します。

日清の両国の交渉の結果、アメリカ元大統領のグラントの案で合意するものの、清国が調印せず廃案となり、決着は日清戦争の終結まで曖昧な状況が続いています。

明治政府となった日本の領有を明確にした琉球処分

徳川幕府から明治政府へと国の在り方が大きく変わった日本が、それまでの幕藩体制から政府による都道府県単位での中央集権国家体制への変更をはかった廃藩置県の政策の一環とし、琉球王国に対して行なったのが琉球処分と呼ばれています。

徳川幕府の時代に、薩摩藩が武力征服して属国支配をした琉球王国を明治政府が中央集権とするために政策を通知するものの、清国との君臣関係の存在から従わず、武力を背景とした政策実行が行われたため、沖縄にとってはイメージが悪いものとなっています。

日本の琉球処分に反発する清国は、アメリカ元大統領のグラントを調停役として日清両国による交渉を行い、グラントの提示した案に合意しますが、清国が調印せずに廃案となり、戦争を回避するためか、言及されるのは日清戦争終結後になります。

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