沖縄県は昔琉球という名でしたが、日本の属国となり、日本の様々な政策を取り入れてゆくことになります。
沖縄県と改名になった時も沖縄の住民は自分たちの経済が良くなることをきたいしていました。
なぜなのかご紹介したいと思います。
沖縄県の歴史
沖縄は1879年までは琉球王国として独自の政策を行っていました。
しかし、1879年に明治政府は武力を背景に、首里城にて廃藩置県を言い渡します。
当時琉球は琉球藩と名付けられており、まだ県としては置かれていませんでした。
沖縄県となったことで、沖縄の藩主は東京に移住するようにと命令し、琉球の土地や人民、書類の引き渡しを要求しました。
この日本政府のやり方に住民はだまっておらず、清に援助を求めるなどして反発しますが、日本はこの反発に対して政治的行動を起こして、反発を抑え込みます。
清も琉球を援助することはできず、琉球は沖縄県となって日本の領土になる道を選びます。
土地整理事業と人頭税の関係性
沖縄県となり住民は経済的に良くなることを期待します。日本ではこの沖縄県となった1879年までに地租改正などの改革が進んでいき、順調に明治政府の制度を固めていきました。
しかし沖縄県は日本で行われていたような地租改正などの改革をもとにした土地整理事業は行われずに、旧制度の政策が続けられていきました。
政府はまず、沖縄の政策を進めるよりも、沖縄の教育から変えていこうとして、天皇制国家の臣民として育てようとしました。
旧制度がずっと続いていくので、沖縄住民の経済はよくなっていきません。
そして沖縄住民は政策に異議を唱えようとして立ち上がります。
沖縄住民が一番苦しんでいた政策に人頭税があります。
人頭税とは納税能力に関係なく、全ての国民一人につき一定額を課す税金のことです。
もともと経済があまり良くなかった沖縄住民はこの人頭税で経済的に負担が大きかったようです。
この反乱が大きくなっていくにつれて、日本政府も沖縄の改革に乗り出していきましたが、土地整理事業がされ地租改正などが行われたのは1899年ほどでだいぶ遅れての改革でした。
この改革の遅れは日本の利益ばかりを見ていて人頭税に苦しんでいる人たちに事を金かけていなかったことが分かります。
まとめ
沖縄県となって人々は経済が良くなることを期待します。
しかし人頭税などの旧制度はすぐには変わらず、1899年に土地整理事業が行われてようやく新制度が始まりました。