琉球王国は1429年から1879年に成立したとされるかつての沖縄県の呼び名です。
基本的に領土は小さな島の集合体ですが、八重山や宮古島といった先島諸島、奄美諸島を侵略し、領土を拡大しました。
海洋貿易によって栄えたと言われていますが、人口はどれほどだったのでしょう。
琉球王国の人口とは?
琉球王国の時代によって人口には差があるとは思われますが、大体17万人前後で推移していました。
人口17万人の内訳に関しては、
有力士族 425人
下級士族 8075人
農民・漁民 16万1500人
というものになります。
下級士族というのは役人や官僚の類で、お給料をもらって生活をする人々のことですが、なかなか役職が開くことがなく、内職や農業を行い貧しい生活を送っていたことが多かったようです。
琉球王国の生活とは?
琉球王国には有力士族と一般庶民での生活にはかなりの差があったようです。
琉球王国は中継貿易で栄えたと言われていますが、実態は清との貿易は赤字で、薩摩藩と幕府からの借金でなんとか朝貢貿易を維持していたというものでした。
しかし、朝貢貿易をやめるわけにもいかず、税を厳しく取り立て、米を借金返済に充てていたといいます。
有力士族は私的な貿易で収益を上げていた半面、下級士族と庶民の生活は苦しいものでした。
特に庶民は人頭税が課された上に、土地の所有や婚姻や移動の自由も制限され、農奴のような暮らしをしていました。
人頭税とはその年の収入に関係なく、15歳から50歳の人には一律に税金を掛けることをいいます。
他村の者と交流することも禁じられ、同じ村同士内で結婚をするしかありませんでした。
特に、琉球王国の植民地であった八重山や宮古島といった先島諸島では税の取り立ては更に厳しいものでした。
食べるものに関してもほとんどは芋が主食だったようですが、地域によっては粟といった雑穀すら食べることが出来ないという有り様だったようです。
その一方で、有力な士族たちの間では堺から茶人が来た時は、日本茶がブームとなったともいいます。
まとめ
琉球王国の人口は17万人とされています。
内訳に関しては、
有力士族 425人
下級士族 8075人
農民・漁民 16万1500人
というものになります。
経済格差は激しく、庶民たちは厳しい税の取り立てに苦労しながらも、有力士族たちは個人的に外国と貿易を行い、更に富んでいったようで、堺から茶人が来た時には日本茶がブームとなりました。
庶民たちの生活は農奴と同じようなもので、土地の所有や移動、婚姻の自由がなく、同じ村同士で結婚をするしかありませんでしたので、親族婚のような状況でした。
八重山といった先島諸島は更に苦しい生活を余儀なくされますが、有力者の腐敗がその生活に拍車を掛けました。