琉球王国の尚巴志王ってどんなことをした人?

かつて沖縄県は琉球王国と呼ばれ、1429年から1879年まで存在した独立国でした。

明(清)と冊封関係を結び、1609年からは日本の属国にもなりました。

そのため、明(清)と日本の影響を受けた独自の文化が特徴です。

さて、琉球王国の建国者として知られるのが尚巴志王です。

どのようなことをしたのかを解説します。

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沖縄本島を統一した尚巴志

琉球王国になる以前の沖縄本島は中山、北山、南山という3つの勢力に分かれて、争っていました。

これを三山時代といいます。

尚巴志は南山に属する按司思紹の息子として生まれました。

按司とは豪族という意味です。

尚巴志は21歳で隠居した父の跡を継ぎ、按司となります。

1406年には中山の王を攻撃し、父思紹を中山王にします。

その後、北山と元々、自分たちが所属していた南山を滅ぼし、沖縄本島を統一しました。

翌年の1429年に明から冊封を受け、琉球王国という国号と尚の姓を明の皇帝から賜りました。

琉球王国建国後の尚巴志の政策

首都を首里と定め、小高い丘にあった首里城を拡張しました。

そして、那覇を港として整備しました。

首里城は小高い丘の上にある城で、那覇の街の様子が見渡せたといいます。

中山国も自前の港を持っていましたが、琉球王国が新たに那覇を港としたのは他の港よりも規模を大きくすることが出来たからです。

他にも当時の大型船が入港することが出来た数少ない港でした。

他にも小さな国だったので物資の一部を国外から輸入しなければならないという事情も那覇港の整備に繋がったようです。

外交に関しては明、朝鮮、日本、東南アジアなどと幅広く交易をし、外交関係を結びました。

内政的には多くの明人が政治に参加し、初代国相も明人の懐機という人です。

そのため、明の律令制度を参考に国作りが行われ、間切制度などを作り、琉球王国の基礎を作りました。

鉄を日本から輸入し、農機具を作ったのも尚巴志です。

まとめ

尚巴志王は琉球王国の王です。

考え方により、第一尚氏王統の初代王とされることもあれば、2代目の王ともされます。

これは初代を尚巴志王の父思紹と数えるためです。

尚巴志は沖縄本島を統一後、首里城を王城と定め、城を拡張し、那覇を港としました。

那覇を港として整備したのは当時の大型船が入港出来る数少ない港だったからです。

小さな国ゆえに物資を海外から補充することも必要であり、海外との貿易のためにも大きな港が必要でした。

国の政治に多くの明人が参加し、律令制度など明の制度が多く取り入れられ、のちの琉球王国の基礎が出来上がりました。

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