琉球王国はかつての沖縄県の呼び名で、1429年から1879年まで存在した独立国でした。
明の冊封国でしたが、1609年には薩摩藩の島津氏に侵攻され、従属国となりました。
対外的には独立国は維持されますが、実際は幕藩体制に組み込まれ、薩摩藩の支配を受けました。
そのため、琉球王国は王が変わったり、江戸で将軍が変わるごとに使節を送る江戸上り(えどのぼり)を行いました。
なお、琉球王国の公式文書に江戸上りという単語はなく、江戸立ちが使われていました。
1634年から1850年まで18回行われた江戸上りとはどのようなものだったのかを解説します。
江戸上りの使者は2種類
江戸上りは将軍が変わるごとに派遣される「慶賀使」と琉球王が変わるごとに派遣される「謝恩使」の2種類があります。
慶賀使は将軍の就任を祝う使節団であり、謝恩使は琉球王就任への感謝を江戸の将軍に行う使節団です。
時代によって構成員は多少変化はありますが、どちらの使節団であろうと、やることや構成員にほとんど変わりはありません。
王子を正使にして、副使に親方(士族のトップ)、讃議官、楽正、儀衛正、掌翰使、楽師、楽童子などで構成されました。
琉球王国の使節団は100名前後で構成され、7回目と8回目は慶賀使と謝恩使が同時に派遣されたため、200名近くが派遣されました。
使節団には薩摩藩の護衛や藩主、役人も道中を共にするので、総勢500人ほどで江戸に向かうことになります。
江戸上りの様子とは?
王子を正使とする使節団は鹿児島から船で現在の京都府伏見へと向かいました。
第1回から第7回までは美濃路を通ってから、東海道を江戸へ歩きましたが、第8回からは鈴鹿路を通って、東海道に出て、江戸から向かいました。
この時、琉球の一団の衣装は薩摩藩から唐風を強制されたという意見もありますが、実際に宝永七年寅十一月十八日 琉球中山王両使者登城行列という絵巻物に書かれた琉球の人々は王子が唐風で、身分が低い者は琉服という琉球王国の服装をしています。
なお、琉球王国の正装は中国の冠服と呼ばれるものなので、王子が唐風の装いなのは当然だと思います。
ただし、薩摩藩が琉球王国の使節団の服装にケチをつけたのは確かです。
その内容は、「小姓の服が貧層だから、なんとかしてくれ」や「異国情緒が欲しいから、唐風を強調してほしい」といったものでした。
衣装の指示がされたのは庶民に異国の一団を見せることで、将軍の威光を見せつけたと考えられます。
この服装への要請について、「けしからん」という意見もありますが、琉球王国側にとって自分たちは日本人ではなく、別国の人間なのだと服装で主張出来るという大きなメリットがあります。
琉球王国の使節団が来る度に、江戸では琉球王国がブームとなり、現在でいうガイド本のようなものが出版されたようです。
使節たちは将軍との謁見や日光東照宮への参詣といった行事をこなしながらも、江戸の文化人や学者、芸術家などと交流を行ったと伝えられます。
なお、使節たちは当初、日光東照宮に詣でていましたが、1651年に上野の寬永寺に東照宮社殿が出来ると、以後は日光まで行かず、上野の寬永寺に代参しました。
まとめ
江戸上りは琉球王国の公式文書では江戸立ちと表現されます。
琉球から薩摩に渡り、準備を整えて、江戸へ向かうのですが、往復およそ300日という長い道のりです。
江戸で冬を越したので、南国の琉球王国の人々にとって江戸の寒さには苦労したようです。
しかし、江戸幕府にとっては国交のない明の情報を得る絶好の機会でもあり、庶民にしてみれば、異国に接する数少ない機会でした。
そして、この江戸上りは日本と琉球の数少ない文化交流の役目も果たしました。
一時期は予算が掛かり過ぎるということで江戸幕府にとって江戸上りは本当に必要かどうか議論されたこともありましたが、結局、1850年まで続きました。