かつて沖縄県は琉球王国と呼ばれ、1429年から1879年まで存在した独立国です。
明(清)の冊封国であり、1609年以降は薩摩藩侵攻により薩摩藩の従属国となりました。
そのため、明(清)と日本の文化の影響を受けた独自の文化が特徴となっています。
幕末には多くの西欧列強の船が訪れ、王国との通商や開港などを要求しました。
その中にペリー率いるアメリカ艦隊もありました。
ペリーはその時の琉球王国の様子を書き記していますから、ご紹介します。
ペリーとは?
本名マシュー・カルブレイス・ペリー(1794年-1858年)
父と弟も海軍に所属した海軍一家。
弟はアメリカ海軍の英雄とされています。
1800年代のアメリカは捕鯨の最盛期を迎えており、日本近海などで捕鯨を行うための物資補給、通商の目的で日本に来航。
琉球王国にも同様の理由で訪れています。
航路の関係上、日本よりも早く琉球王国を訪れています。
私生活では大変に家族思いだったようです。
晩年はアルコール使用障害、リウマチ、痛風を患っていたようですが、琉球王国や日本からの帰国後は遠征記などを記しました。
必要とあらば、武力制圧してでも開港させるべしとの命令を受けていたといわれていますが、アメリカ国内の事情などもあり、実際には無人島であった小笠原の父島を占領するに留まりました。
なお、小笠原の父島は外国の抗議と江戸幕府が自領であるとの証拠を示し、アメリカは撤退しています。
ペリーが見た琉球王国
ペリーは「ペリー提督日本遠征記」という著作を記し、琉球王国の記述に関してもその中にあります。
要約します。
・農耕などを行う土地は琉球王府が所有しているようだ。
・琉球王府は農作物を徴収し、かつ消費するための執達吏たちを雇っている。
・耕作者は収穫量の5分の1しか手元に残らない。
・収穫量の5分の3は土地の領主の元へ、5分の1は土地の監督や徴税の費用になる。
・土地の性質や場所がどんなところであれ、耕作を完璧に行っている。
・灌漑が行われている。
・農業労働者たちには休息はなく、朝から晩まで働いている。
・農業労働者たちの労賃は1日3セントから8セントである。
・職工の労賃は1日10セントである。
・庶民の大半は低賃金で家族の衣食住を賄わなければならず、頭を悩ませている。
・5歳ほどの子どもも働いている。
・鍛冶屋に入ったら、職人である父親と息子2人は我々を無視した。
・職人とその息子が我々を無視したのは、街の中にいる王府の密偵を恐れたためである。
・鍛冶屋を出ると、密偵たちが我々の先を歩き、家々に、「戸を閉め、女を隠すように」と指示していた。
・住人たちは監視されていないと分かっていなくても、見られていないかと恐怖で震えており、飢えた猟犬のようであった。
農民は奴隷に等しく、メキシコの債権奴隷以外でこんなに貧しく悲惨な人々を見たことがない。
・私(ペリー)の観察によると、4つの身分制にわけられる。
・第1の身分は政府の高官、第2に僧侶と文人、第3に下級官吏と密偵、第4に労働者。
・第4の労働者階級の労働によって、第1から第3までの階級は生活している。
・第3階級の密偵を除けば、他の第1と第2の身分の人々と第3の下級官吏が一体いつ働いているのか分からない。
・上流階級の懐柔はうまくいった。
・下級階級の人々はほとんど感情を顔に表そうとせず、鈍感で無感動な表情こそが労苦と不安の象徴であり、目も当てられない境遇にあるという指標なのである。
まとめ
ペリーは1800年代後半に活躍したアメリカ海軍の軍人です。
父と弟もアメリカ海軍に所属した海軍一家です。
弟はアメリカ海軍の英雄とまで言われています。
琉球王国と日本へは捕鯨のための開国を要求するために来航しました。
航路の関係で日本よりも琉球王国に先に訪れました。
帰国後に、「ペリー提督日本遠征記」を編纂しました。
農民たちは作物が5分の1しか手元に残らないということですが、数字を変えれば、10分の8の作物が税として徴収されるということです。
琉球王国でペリーが見たのは、庶民の厳しい生活の様子でした。