琉球王国の首里城の歴史

琉球王国はかつて沖縄県に1429年から1879年に存在した独立国です。

明の冊封国であり、1609年には薩摩藩の侵入により、薩摩藩に従属することになります。

そのため、明(清)と日本の影響を強く受けた文化が生まれました。

王族たちは首里城に住んでいましたが、どのような歴史を持つ城なのかを解説します。

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首里城の歴史とは?

築城された時期はよくわかっていません。

一説によれば、13世紀末から14世紀末頃築城とされています。

この頃の琉球王国はまだ建国されておらず、中山、北山、南山という3つの勢力に分かれ争っていました。

首里城は中山勢力圏内にあった城です。

その後、中山と北山、南山は中山に統一され、1429年に琉球王国となります。

初代国王尚巴志は小高い丘にあった首里城を拡張したといいます。

2度目の拡張は16世紀に行われました。

これにより、城は内郭と外郭からなる2重構造となっています。

琉球王国時代に3度の火災に遭っています。

1度目は1453年の志魯・布里の乱と呼ばれる王位争いで、内部も破壊され尽くされたそうです。

2度目は1660年で再建には11年必要でした。

3度目は1709年で、財政がひっ迫していたため、薩摩藩から元木2万本の提供を受けました。

日本併合後の第2次世界大戦下で沖縄戦により4度目の焼失。

現代の首里城は1709年の首里城を元に1992年に復元されたものです。

首里城の特徴

建物は明(清)の影響を強く受けており、天守閣はありません。

王や家族が暮らす王宮であると同時に、琉球王府と呼ばれる行政施設でもあります。

一部ではありますが、主な施設についてご紹介します。

『御内原(おうちばる)』江戸城の大奥に当たります。

『黄金御殿』御内原内にあり、王、王妃、王母が住みました。

『正殿』万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘が掛けられています。

『御庭(うなー)』首里城の中心です。

正殿、北殿、南殿に囲まれており、様々な儀式が執り行われました。

『御嶽(うたき)』聖地や祭祀場といわれる宗教的な場所です。

10ヵ所ほどあったとされます。

一説にはこの御嶽があった場所に首里城を作ったのではないかとされています。

『守礼門』日本の城でいう大手門に当たる場所です。

冊封使を王や高官たちが出迎えていました。

冊封使とは琉球王国の王を、王として認める中国の使者といったところです。

冊封使を出迎えた王や高官たちは冊封使たちに三跪九叩頭の礼を行ったといいます。

三跪九叩頭の礼とは本来、皇帝の臣下たちが皇帝に対して行う礼のことです。

『瑞泉門』近くには王が身を清めたり、王府内の飲料水に使われた湧水がありました。

『北殿』冊封使を歓待したといいます。

『南殿』薩摩藩の使者を歓待したといいます。

まとめ

首里城がいつ築城されたは正確には分かりません。

13世紀末から14世紀といわれています。

琉球王国は15世紀と16世紀に拡張が行われ、外郭と内郭の2重構造となりました。

王国時代は3度の火災に遭い、第二次世界大戦下でも焼失。

現在、沖縄にある首里城、守礼門などは復元されたものです。

外観は中国の影響がとても色濃いものです。

首里城には明(清)からの冊封使を迎える施設と薩摩藩からの使者を迎える施設がありました。

城内の王の個人的なスペースに書院造の畳が敷かれた部屋と庭園があったといいます。

中国の影響が色濃い首里城ではありますが、一部には日本風も取り入れられています。

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