琉球王国と日本の関係

琉球王国はかつての沖縄県の呼び名で、1429年から1879年まで存在した独立国です。

日本と明(清)の影響を受け、独自の文化を築きます。

地理的にも日本や明(清)、東南アジアが近かったこともあり、多くの国と外交関係を持ち、貿易を行っていました。

琉球王国と日本の関係についてまとめました。

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琉球王国のルーツは日本

琉球王国の歴史が始まる遥か以前は無人島でした。

台湾や東南アジア、日本からやってきた人々が住み始めたのです。

しかし、縄文時代に現在の鹿児島県にある喜界島カルデラの噴火により、九州沖縄は人が住めない状態になってしまい、再び、沖縄は無人となってしまいます。

人が住めるようになった頃に、日本から人々が再度やってきて、狩猟採集生活を始めます。

その後、12世紀頃に平家の生き残りではないかという人々が沖縄に住み始めます。

この人々が農耕をもたらし、古代文明が始まりました。

その後、日本の本土と沖縄県は数百年間交流を持つことがなかったため、大和民族と琉球民族としてそれぞれ違う歴史を歩むことになります。

数百年間の交流がなかったのは日本に内乱が起こっていたからと言われています。

もっとも、12世紀頃に沖縄に住み着いた人々が、本当に平家の末裔だった場合、敵だった源氏が治める日本と積極的に交流を持とうとはしなかったでしょう。

元々は同じ民族だったため、言語や神話といった文化に共通点があります。

琉球語といわれる沖縄の言葉は日本の平安時代頃の日本語との類似点が指摘されていて、この頃の日本語が元になっているとされます。

何故、度々、日本から沖縄に移民が行われたかというと、海流の関係から九州から沖縄に辿り着きやすかったかららしいです。

琉球王国と日本の関係

日本と琉球王国が再び関係を持ったのは室町時代の頃のようです。

豪族たちが対立していた沖縄本島が統一され、琉球王国が誕生した前後の1400年代初期頃と思われます。

琉球王国の初代国王の尚巴志は日本から鉄を購入し、農機具を作り、農民に配ったと言われています。

その後、少し時代が進むと琉球王国は薩摩藩が領有していた奄美諸島を侵略し、占領します。

いくらか戦闘があったようですが、1400年代の薩摩藩は弱体化しており、奄美諸島を防衛することは出来なかったようです。

一方で、琉球王国は室町幕府に使者を派遣していたようです。

室町幕府の対応があまりにも酷かったので、琉球王国の使者は面会が終了後に怒っていたという記録があるようです。

1500年代後半になると、戦国時代に天下人となった豊臣秀吉は琉球王国に、使者の派遣を要求します。

琉球王国は当初、渋りましたが、尚寧王の即位直前で財政難だったので、使者を派遣すると同時に借金を申し込みました。

これで増長してしまった豊臣秀吉は琉球に、「明を攻めるから、物資を出せ」などと要求します。

俗に言う文禄慶長の役と呼ばれる戦役です。

琉球王国は明の冊封国(属国)なので、明の敵である日本に物資など出せるはずはありません。

しかし、日本から攻められても困るので、明に日本の動きを報告しつつ、物資を提供しました。

琉球王国への冊封使である夏子陽が1604年に琉球王国を訪れた際のことを、「使琉球録」に残しています。

この本は日本と琉球王国の関係についても書かれていますので、要約してご紹介します。

・琉球王国は日本から朝貢品である蘇木、胡椒を買っている。

・日本は蘇木、胡椒をシャム(タイ)人から買って、琉球人に転売している。

・琉球王国は国が貧しく、お金が足りないため、日本にたびたびお金を貸し付けられている。

・冊封使が琉球に到着すると、日本商人もいて、借金取り立てのチャンスを狙っている。

・那覇の市場に、刀剣を腰にさした日本商人がいる。

・将来、琉球王国は日本に侵略されるだろう。

このようなことが書かれています。

琉球王国は1609年に日本に侵入され、従属国になりました。

薩摩藩の支配により、江戸幕府の体制に組み込まれました。

薩摩藩が琉球王国に侵入した時、徳之島の住人は抵抗しましたが、他の島では特に抵抗はなかったようです。

沖縄本島においても大きな戦闘はなく、王府は和睦という方針を決めていました。

夏陽子が述べているように、琉球王国は小さな国な上に、長い間、戦はありませんでした。

一方、1600年代の薩摩藩は鬼と呼ばれるほど強かったのです。

戦っても物量差と兵の質で負けていたでしょう。

その上、当時の琉球王国は薩摩藩から借金をしており、今後も借金が出来なければ、国を維持出来ないため、戦うよりは穏便に済ませたいという考えが働いたとも推測出来ます。

それとも、明に一連の出来事を報告しているので、明の援軍を待つつもりだったのかもしれません。

琉球王国の財政はとても厳しかったらしく、日本への借金を米で返そうとしたが、結局、踏み倒したともいわれています。

首里城が焼失した際には薩摩藩から2万本の原木の提供を受けています。

1879年には琉球王国は借金を明治政府が肩代わりした上で、日本に併合され、消滅しました。

まとめ

琉球王国が出来る前の沖縄に農耕をもたらしたのは落ち伸びた平家の一団ではないかとされています。

その後、長い間交流がなかったため、大和民族と琉球民族という2つの民族に分かれます。

日本と琉球王国の関係から見えてくることは、王国の困窮ぶりです。

赤字を穴埋めするために、薩摩藩や江戸幕府に借金を重ねるという悪循環に陥っていることが分かります。

現在の沖縄県は東京都を少し大きくした程度の面積しかなく、当時の琉球王国も同程度でした。

生産力も人口も何もかも限られている中で、明から国力以上の朝貢品を求められていることが、使琉球録に書かれています。

その後、日本の支配を受けたことで、日本からも朝貢品を要求されます。

琉球王国は自国の生産能力を超える量の朝貢品という問題を解決するために、やはり借金をしながら自転車操業のように国家を運営していたようです。

小さな国ゆえに大国を敵に回せず、経済的にも大国に頼るしかなかったのが琉球王国です。

その頼った相手が明であり、日本だったのです。

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