かつて沖縄県は琉球王国と呼ばれ、1429年から1879年まで存在した独立国でした。
明(清)の冊封国で日本の従属国だったので、これらの国の影響を受けた独自の文化が特徴です。
しかし、影響を受けたのは明(清)と日本だけではありません。
東南アジアの国々とも貿易をしていたこともあり、これらの国々の影響も受けています。
影響を受けて生まれたものの1つに日本最古の蒸留酒である泡盛があります。
どのようにして生まれたのかを解説します。
琉球王国の泡盛の誕生のキッカケは2つ
泡盛が作り出された時期はハッキリとはしませんが、14世紀にはすで作られていたことが分かっていて、外国から製法が伝えられたようです。
伝わったルートは2つあります。
・中国福建省ルート。
・東南アジアルート。
泡盛には中国福建省の蒸留酒の製造工程との類似点がありますから、福建省の蒸留酒の製法が伝わったのだろうとされます。
琉球王国は明と交易もしていましたし、国内にも多くの明人が滞在し、政治家として国政に参加していましたから、当然、酒造りの製法が伝えられたことと思います。
しかし、東南アジアから伝わったことも否定することは出来ません。
琉球王国の泡盛は各国への贈答品としても用いられたそうです。
当時から泡盛を寝かせて、古酒にしたものを飲むという風習はあったようです。
琉球王国の泡盛の作り方
現代の泡盛はタイ米と黒麹で米麹を作った後に、水と酵母を入れ、もろみにしてから、アルコール発酵させます。
しかし、琉球王国時代の作り方は少々、違いました。
まず、原料は米の他に粟も加えていました。
麹を作った後、水を加えずにアルコール発酵させます。
これは中国のコウリャン酒に通じる製法だそうです。
18世紀と19世紀になると、王府は民間の泡盛作りを規制するようになり、首里の三箇と呼ばれる場所でのみ作られるようになり、蒸留器も王府が管理していたようです。
三箇で作られた酒は密売され、地方でも米や芋を原料にした酒を作っていたようです。
結局、王府は規制することを諦め、集落の大きさに合わせて、作る量を決めるようにと通達を出したといいます。
まとめ
琉球王国の泡盛のルーツは今の中国の福建省や東南アジアから伝わった製法が元になっているといわれています。
初期の泡盛の製法は中国のコウリャン酒に通じるものだそうで、米や粟を材料として、水を加えずに作られました。
庶民たちも泡盛を造っており、その時は米の他に庶民の主食であったさつまいもが使われたようです。
王国の泡盛は国内で消費されただけではなく、他国への贈答品や献上品としても用いられました。