琉球王国が課していた人頭税について

かつて沖縄県は琉球王国と呼ばれ、1429年から1879年まで存在した独立国でした。

1609年には薩摩藩の侵攻により、属国となります。

独立は維持されましたが、薩摩藩に支配されました。

琉球王国は貿易で得た利益の他に、年貢も薩摩藩に納めることとなりました。

年貢を捻出するために始められたとされるのが人頭税と呼ばれる税ですが、どのようなものだったのかを解説します。

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人頭税とは?

年齢や収入に関わらず、1人辺りに決められた税を課すというものです。

古代から中世にかけて、地域を問わず、多くの国で行われ、勿論、古代の日本にもあり、原始的な納税方法です。

現代の税の中にも人頭税的性格を持つものが存在しています。

琉球王国では当初は1人辺りに課していましたが、のちに集落単位に課すという方式に切り替わりましたので、人口が減った場合、1人辺りの税負担は増すことになります

病人や子供、妊婦などは税を免除されましたが、生活は厳しいものでした。

納めるものはお金に限らず、収穫物や布といったものもありました。

琉球王国では薩摩藩が侵攻してきて、年貢を納めないといけなくなったので、人頭税を導入したとされていますが、それ以前から導入されていたという説もあり、ハッキリとした導入年は分かりません。

1429年以前に琉球王国が中山という勢力だった時代から、明人が中山に仕えています。

王国建国後の初代国相も懐機という明人です。

そのため、明の制度が多く取り入れられたと推測出来ます。

その明は丁銀と呼ばれる人頭税を導入していましたので、似たような制度を琉球王国も採用した可能性があると思います。

厳しい人頭税に苦しんだ先島諸島

琉球王国の沖縄本島においても人頭税はあり、苦労したようでしたが、先島諸島は琉球王国の植民地だったので、更に苦しく課税させられました。

島民たちは王府へ納める以外にも役人の人頭税を肩代わりさせられたりもしたというので、生活は過酷なものでした。

琉球王国は税収を増やすために積極的に先島諸島を開墾し、島に島民が多い場合は一部の島民を別の島へ強制移住をさせましたが、うまくいかないことも多かったようです。

1879年の琉球処分後に琉球王国は沖縄県になりましたが、琉球王国時代からの統治がある程度許されていたため、人頭税も行われました。

人頭税の廃止は1903年のことでした。

1893年に西里蒲と平良真牛という宮古島の農民である青年が東京に沖縄県宮古島 島費軽減及び島政改革請願書を届けてから10年後のことでした。

内容は宮古島の人々が人頭税により、役所や病院学校、事務費、役人の給料など様々なものを負担しているので、とても生活が苦しいということが書かれています。

この請願書では宮古島の人々はボロボロの家に住み、ボロボロの衣服を身にまとい、さつまいもを主食にし、粟すら食べたことがなく、味噌がある家は4軒に1軒程度で、海水が調味料代わりであるとなっています。

この請願書は宮古島や沖縄県庁からの妨害を乗り越えて届けられました。

まとめ

琉球王国が行っていた人頭税は古代社会においては当たり前のように世界中で行われていました。

人口が少なく、土地の開墾もまだ十分ではない古代において、収穫物や土地に応じて税を徴収するよりは1人に税を課す人頭税のほうが効率的だったのでしょう。

人頭税は人口が増えると徴収が面倒になるので、土地に応じて税を徴収するといった別の方法に切り替わることも多いです。

人頭税は薩摩藩が侵攻する以前からもあったという説と薩摩藩の年貢を納めるために始まった説の2つがあります。

琉球王国は明人が国造りに多く参加しており、初代国相も明人です。

明は丁銀という人頭税が導入していましたから、琉球王国も導入した可能性もあると思われます。

薩摩侵攻後、琉球王国は年貢などを納めるために、人々への人頭税を重くした可能性もあるでしょう。

薩摩藩侵攻後、財政がますます困窮したのは確かでしょうが、何故か薩摩侵攻後に役人の生活が以前に比べて豊かになったともされています。

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