琉球王国が取り込まれた冊封体制とは?

太古の昔、大陸とつながっていたと言われる琉球列島が、新石器・貝塚時代から農耕文化へと移り、社会が形成され各地に按司と呼ばれる権力者が現れ、勢力争いが発展し沖縄本島には北山、中山、南山の三山が存在する時代を迎えます。

三山時代となった琉球の中山の察度王統の二代武寧に、明の洪武帝が冊封使を派遣し、武寧を中山王に冊封して、中山を琉球国として認め、君臣関係を結んでいます。

中国が琉球王国に対して行なった冊封体制は、中国王朝を中心とした中華秩序の構築のためのもので、対象国の内政や外交に干渉するものではなく、中国と冊封国は互いに独立国であり続けています。

中国の明と清国が、琉球王国を冊封体制に取り込んだ理由や琉球王国が受け入れた理由について紹介します。

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歴代の中国皇帝が行った冊封体制と琉球王国

中国には、高度な文明を築いた広大な国であり、天命を受けて中国に君臨する皇帝を頂点として、中国文化を周辺諸国にも教化しているという中華思想が根底にあります。

そのため、中国は周辺諸国の君主との間に君臣関係を結んで、中国に従属する関係を成立させた秩序を維持する独自のルールとして冊封体制を作り上げています。

中国の明王朝は、琉球の中山の察度が進貢した際に、中山を琉球国として認めて王爵を与えた君臣関係を結び、冊封体制の一員としています。

琉球王国は、中国明王朝から清国との君臣関係を結ぶ冊封体制の一員となり、中国皇帝に敬意を払うために朝貢品を送り、中国側は莫大な返礼品と庇護を下賜して上下関係を示しています。

中国皇帝が冊封体制に琉球王国を取り込んだ理由は?

中国明王朝と清国が、琉球王国を冊封体制の一員とした理由には、明王朝の北にあったモンゴルの脅威に備えるための軍備として、馬と火薬の原料となる硫黄を確保するためだったと考えられます。

漢族の大発明品といわれる黒色火薬の原料となる硝石は、明王朝が潤沢に調達できたものの、硫黄については産出が難しく、琉球王国の勢力範囲にあった喜界島には潤沢な硫黄の産出があったため、冊封体制に取り込んだ最大の理由と考えられます。

また、琉球王国は痩せた土壌が多いため農産物の生産に期待できず、経済力強化のためには交易を行う必要があったため、明王朝の冊封体制下に入ることで、朝貢貿易を可能にでき、国内の勢力争いと統治に中国皇帝の権威を利用できるというメリットがありました。

中国が琉球王国を冊封体制におけたのは、中国が必要とした朝貢品を準備させることができ、琉球王国も潤沢に準備できる琉球馬と硫黄を利用して朝貢貿易による利益が期待でき、明王朝の権威が国内外に利用できるという双方の思惑が一致した結果と言えます。

琉球王国と中国の間にあった冊封体制

琉球王国が中国の明王朝と清国の冊封体制の一員となったのには、独立国として双方の内政支配や外交に干渉するものではなく、中国の権威と交易の利益が期待される琉球王国と中国が必要とした馬と硫黄を朝貢品として調達できる思惑が一致しています。

中国皇帝との朝貢は、通常3年に一度程度行われていますが、琉球王国にはその制限が緩和され、一時期は回数の制限が無くされているほど、琉球馬や硫黄を明王朝が必要としたと考えられます。

冊封体制は、古来から続く中国皇帝と周辺諸国との関係構築のために生み出された独特のルールであり、中国との君臣関係はあるものの、双方が独立国として存在することに特徴があります。

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