かつて沖縄県は琉球王国と呼ばれ、1429年から1879年まで存在した独立国です。
明(清)と冊封し、1609年からは日本の属国でもありました。
そのため、2つの国から影響を受けた独自の文化が特徴です。
そんな独自の文化を持つ琉球王国ではどのような文字が使われていたかをお伝えします。
琉球王国の外交文書で用いられた文字
明と冊封をしていた琉球王国では明との外交文書では漢文を使っていました。
これは、そうしなければ、明に受け付けてもらえなかったからです。
漢文は家譜という家系図のようなものにも用いられました。
17世紀以降の日本との外交文書では候文と呼ばれる和文が使われます。
こちらは当時の日本の公式に乗っ取った文章になります。
和文ではありますが、藩の公式文書といった重要文書ほど漢字が多く使用され、日本風の漢文といったところです。
琉球王国内で使われた文字
琉球王国内で使われていた文字は15世紀と16世紀は漢字とひらがなが混じった文字が古文書や碑文で使われています。
ただし、琉球王国の言葉で書かれているものなので、日本本土の人々は読めても意味までは分かりません。
17世紀以降になると、琉球王国の王府内の正式文書も和分の候文が使用されます。
この候文は官民問わず日本国内におけるほとんどの正式文書で用いられました。
藩の正式文書といった重要なものほど、漢字が多く使われるのが特徴です。
ただし、民間の候文についてはかな文字も使われていたといいます。
琉球王国で候文が使われ始めたのは1609年に薩摩藩に侵攻され、日本に従属することになったからです。
組踊りや琉歌では琉球の言葉に基づいた和文が用いられました。
まとめ
琉球王国は元々国内ではひらがなと漢字が混ざった文字を使用していました。
日本の本土と同じ文字を使っていても、琉球王国の読み方や言葉に基づいたものなので、日本本土の人々は読むことは出来ても意味までは分かりません。
琉球王国の人々も同じで、日本本土の文章を読めても意味までは分かりません。
多くの西欧諸国では文字の読み書きにアルファベッドが使われていますが、国が違えば、言葉が通じなくなるのと同じです。
明との外交文書では漢文が用いられました。
漢文でなければ、明が受け付けてくれなかったからです。
漢文は他にも家譜と呼ばれる士族の家系図にも用いられました。
17世紀以降の日本の外交文書や王府内の正式な文書は候文と呼ばれる和文が用いられました。
琉球王国内の組踊や琉歌の際には琉球の言葉に基づいた和文が使用されました。