琉球王国に薩摩藩が侵攻した経緯

現在の沖縄県にあたる場所に、かつて沖縄本島に100年余り続いた北山、中山、南山の三山を中山の尚巴志が武力侵攻によって統一し、琉球王国が誕生しています。

四方を海に囲まれ、小さな島々の集合体として勢力を伸ばした琉球王国は、中国や朝鮮といった国との君臣関係や臣下関係、日本との属国関係を結ぶなど、外国との交流を駆使しています。

朝貢貿易や中継貿易といった海外との貿易によって獲得した財源と経済力をもとに、武力強化をはかり、約450年にわたる王国の繁栄を継続しています。

琉球王国の長きにわたる繁栄が、滅亡へとつながるきっかけともなった薩摩藩による侵攻の理由や経緯について紹介します。

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琉球王国の繁栄と日本との関係は?

1429年に尚巴志が建国した琉球王国は、第一尚氏王統と家臣の金丸(後の尚円王)によるクーデターで誕生した第二尚氏王統と呼ばれる二つの王統によって、約450年にわたって王位が継承されています。

王統が交代しても、王位は継承され、日本列島や中国、朝鮮、東南アジア諸国を活用した中継貿易によって、経済力を強めて繁栄します。

中国の明王朝と朝鮮王朝との関係がありながら、16世紀の末に日本列島では豊臣秀吉が天下統一を果たして目指した朝鮮出兵で、琉球王国は兵糧提供の義務を負わされます。

その後、日本で江戸幕府が誕生すると、幕府は琉球王国に明との間接貿易を要求しますが、琉球王国がこれを無視し続けます。

薩摩藩の島津軍に侵攻された琉球王国

江戸幕府が琉球王国に明との間接貿易を要求したものの、琉球王国がこれを無視し、拒否したため、徳川家康の許可を受けた薩摩藩の島津軍が琉球王国に侵攻しています。

薩摩藩は3000の兵と戦国乱世の実績を持つ島津の鉄砲隊によって、琉球王国を圧倒し、1609年に制圧しています。

薩摩藩による軍事的制圧によって琉球王国は、君臣関係を結んだ中国の明王朝と共に、薩摩藩の島津家にも服属した日中両属状態になります。

琉球王国は、明王朝との朝貢貿易と薩摩藩との関係から、江戸幕府に慶賀使や謝恩使を派遣しています。

薩摩藩の侵攻による琉球王国の服属

現在の沖縄県にあたる場所にかつて存在した琉球王国は、中国や朝鮮、そして東南アジア諸国や日本といった周囲の外国との貿易によって経済力と武力を強化し、繁栄を継続しています。

琉球王国と日本との関わりは、豊臣秀吉が天下統一を果たした後の朝鮮出兵の際の兵糧提供要求の義務があります。

その後、江戸幕府が中国の明王朝との間接貿易を琉球王国に要求し、この要求を拒否した琉球王国に徳川家康の許可を受けた薩摩藩が侵攻し征服しています。

琉球王国は、徳川幕府の一つの藩である薩摩藩に服属した関係となり、幕府に対しても敬意を払うこととなっています。

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