奈良原繁と聞いてだれかわかる人はそこまで多くないのではないでしょうか。
しかし、この奈良原繁は沖縄の人なら知っている人も多いかもしれません。
なぜかというとこの人は沖縄県知事に任命され、沖縄で県政を行ったことがある人だからです。
ではこの奈良原繁という人物について紹介したいと思います。
奈良原繁はどんな人
奈良原繁は薩摩の鹿児島藩士です。
幕末の時代には攘夷派と尊攘派に分かれていたこともあり当時の藩主島津久光の命令により、尊攘派を襲った寺田屋事件にも加担していました。
また彼の兄がイギリス人を切りつけたために、その処理をめぐって薩英戦争も起きました。
彼らは兄弟でいろんな幕末の事件にも関わっていることが分かります。
奈良原は薩摩藩のためにいろいろ尽力に働いていましたが、西郷隆盛や大久保利通の倒幕の理論には反対していたため戊辰戦争が起こった後は、失脚状態になりました。
戊辰戦争は薩長連合が幕府を打ち破り、以後薩長の人物が実権を握りました。
その中でも西郷隆盛や大久保利通は政府の中枢を担っていたので、奈良原が失脚状態になってしまったのも仕方ないといえます。
ですがその後、彼はいろんな政治の役職に就くことができました。
彼に政治的能力があったのか、重要人物とみなされたかは分かりませんが、伊藤博文や松方正義らの支持もあり、自分の失脚状態から踏ん張ったのだと思います。
そして1892年ごろ沖縄県知事に就任して、沖縄の政務をとり行うようになります。
奈良原繁の県政改革運動
奈良原繁は沖縄開発を進めるため農業銀行を設立するなどして開発を進めます
その中でも奈良原繁が行った政策に貧困士族を救うために農民が管理していた共有山林である杣山の開墾を許しました。
ですがその時は農民の間から農林伐採の自然災害につながると不満の声も上がったのでそこを説得するために立ち上がりました。
士族にためには必要性である理論を説き、説得しましたが、開墾策は有力士族や高級役人に優先的に払い下げられたので謝花という人が沖縄倶楽部を結成し奈良原施政を攻撃しました。
沖縄倶楽部に攻撃はしぶとかったので、奈良原は権力を使って弾圧しました。
結果的に沖縄倶楽部は消滅し、謝花も死んで奈良原繁の施政は守られました。
沖縄の施政を15年ほども行った奈良原繁ですが、いろんな政策を強引に行ったことでいい政務を行ったかは少し疑問点があります。